2012年7月16日月曜日

電気工事士2種

まさか半世紀を過ぎたこの年で、電工2種を受けるとは思わなかった。

おかげさまで、6月3日芝浦工大まで赴いて筆記試験を受けたが、7月5日に合格通知が届いた。答え合わせをしていたので合格だとは思っていたが、通知をもらうと嬉しい。

そして待ち受けるは、28日の実技試験となったわけだ。

2012年7月15日日曜日

富山での1週間

先週8日に守谷から富山に移動した。
昨年は疎開という名目の夏休みを過ごしたが、今回はやや毛色が違って、将来的に富山に戻るかどうかの見極めの様相が強い。いやもう見極めという生温い段階ではない。戻らなければいけないのだと思う。

けして自分のためではない。多分老いてゆく母のためであり、福島原発と地震を怖がる妻のためなのだと思う。昨年それを理由にして退社したのだ。

無職を1年続けてきた。その間資格を取るべく職業訓練校に行かせてもらい。先月3日の電工2種筆記は合格した。あとは今月28日の実技試験に受かればいいわけだ……。

ただ資格があれば良いというわけではないのだが……。

さて、「生暖かい段階ではない」といいながら夏休み気分も味わっている。月曜は昨年も足を運んだスーパー銭湯「ファボーレの湯」に行って、いわゆるモンゴル式サウナというのか、「火釜発汗房」で汗を流す。また水曜と金曜には市民プールに行って1キロずつ泳いだ。

あさくらのチャーシューメン、伊東のカレー、タリーズ、スタバとお気に入りスポットも抑えた。

その中、ハローワークに顔も出し、親戚に挨拶もし、不動産屋で数件物件を見せてもらった。

多分秋にはこっちに越しているのではないかと想像するが……なんとなく気分は憂うつだ。

あんなことがなければ守谷での茨城生活は快適だったのだ!


東京百景38「大田区蒲田某眼鏡店本社」

前回「新宿世界堂」の続きでいくと、1987年7月7日に世界堂を退社して9日から新しい職場にやってきた。本社研修が5日あった。その前に面接等で来ているが、それ以前に蒲田に来た事はなかった。

数日後に府中駅前店に所属が決まったのを始めとして、20年くらい、いろんな店舗を経験した。蒲田に本社がある以上、まあ何かと蒲田にはやってきた。

特に2010年秋から退社する2011年6月15日までは本社勤務だったので、毎日蒲田に通った。それも2010年2月に都内から茨城の守谷に引越したばっかりだったから、毎日つくばエクスプレス&京浜東北線で通っていた。

2011年3月11日の東日本大震災の日。首都圏の交通網は麻痺した。JRもTXも動かず、蒲田の本社で一晩を明かした。翌日俄に動き出した電車で遠回りしながら5時間かけて帰った。普段の3〜4倍の時間。

いろんな想い出があったはずだが、あの日の記憶にすべて消し去られたような気がする。

東京百景37「新宿世界堂」


1987年、7月7日。七夕の夜。世界堂脇の小さなスナックで送別会の宴が開かれた。主役はこの私であった。

主役は気持ちいいほど酔っぱらっていた。因幡晃の「別涙(わかれ)」と山口百恵の「いい日旅立ち」を熱唱した。

1986年の暮れ、知人の紹介で、世界堂でアルバイトを始めた。次の人生を模索していただ。世界堂は数年後火事で近代的ビルに生まれ変わるが、私がいた頃は古いままの、なんだかからくり屋敷のような面白い建物だった。

表に出る事はなく裏方として、額に入れるガラスを切ったり、数店の支店へ発送する荷物を揃え集めたり、トラックの運転手に同伴して、工場からキャンバスを運んだり、世田谷の倉庫へ仕舞いにいったり……意外な支店は横須賀の基地の中だったが一度だけ同伴した。

ここでの生活は楽しかったが、アルバイトだけに収入の面で厳しかった。また失恋もあったりして、それをバネにここを旅立つ決意をする。就活が実り、7月9日に某眼鏡店入社となり、その二日前に辞めることとなった。

アルバイト仲間と社員さん数名で小さな送別会を催してくれたのだった。

2012年7月13日金曜日

東京百景36「サンシャイン通り森永ラブ」

時期でいうと1984年頃、自伝的要素を取り入れたフィクション「ホワイトシティ・セレナーデ」の頃の話だ。

その「ホワイトシティ・セレナーデ」にあるように当時池袋のカプセルルーム、サウナ、シティホテルが合体したビルの地下2階のボイラー室で、24時間勤務をしていたわけだが……昼食と夕食をどうするかという問題があった。


たいした問題ではない……が、いたってたいくつな職場だったので、そんなことでも問題になった。


とはいえ、パターンは決まってくるもので、多分統計を取れば、森永ラブのツナマフィンが第1位を取る事は確実だ。


1970年頃マクドナルドが上陸して、ハンバーガー時代の到来を告げるとロッテのロッテリアや、明治のサンテオレ、同様に森永も森永ラブを展開していった。


結局、サンテオレやラブはなくなり、替わってファーストキッチンやモスバーガーが頑張っているようだ。ファーストキッチンのベーコンエッグバーガーは確かに時々食べたくなる。


「ホワイトシティ・セレナーデ」の宣伝もしておこうと思う……創作して面白おかしくしたつもりであるが、基本的に20代の一番暗い時期である。エンディングが失恋だから暗くて当然とも言える。

2012年7月11日水曜日

東京百景35「新宿住友ビル」

これは自伝的小説「Tokyo Early 3 Years」に詳しいのであるが、一応ここでも触れておきたい。

1981年上京して1年目、二つ目のバイトがマクドナルドだった。それも東口の歌舞伎町に抜ける道で、なおかつ夜10時から朝6時のシンク清掃メインだ。場所柄深夜12時までは開いているので、ハンバーガーも焼く。

もう30年も前なのでかなり忘却しているが、パテという凍っている肉のかたまりを数枚並べて焼く。平行してバンズも専用の機械で焼いている。ベテランバイトのビッグマック9ヶ同時仕上げのようなものを見た事がある。

12時に閉店してからが本業で、いわゆるシンク周りの清掃だが、油汚れが凄い。パテを焼いていると必ず肉汁が出て、これを側溝に流す。1日の肉汁がこの側溝にある容器に溜まっていて、これを処分したり、フィレオフィッシュやポテトを揚げるオイルをそっくり交換するのだが、地下から一斗缶を運んできて入れ替える。他にもいろいろあってかなりの労働だった。当然時給も良かった。

さらにこの時体重8キロ減という偉業を成し遂げたのもこの仕事のおかげだった。

これは反省してるのだが、その頃の私の性分でふと仕事を休んだりしてしまう癖が有った。それが数回重なるとやはり行くのが恐くなってしまう。まあそうなると次の仕事を考えるわけだが……。

当時電話を引く金もなかった(当時は電話を引くのにNTTに7〜8万払って権利を買うのだ)私に連絡を取る手段は電報だった。

「TELコウ、マクドナルド」

私は勇気を出して電話してみた。
担当者は、別に怒るでも呆れるでもなく、事務的に淡々と用件を話した。
要は、支払うべきバイト代が残っているので取りにこいというのだった。

当時、日本マクドナルドの本社は、新宿住友ビルの高層階にあった。現在はアイランドタワーに移っているようだ。

その時、初めて西口の高層ビルの高層階に行ったというのが、東京百景としての落ちなのだが、本来の落ちは別にある。

この時受け取った金額が5000円だった。そしてすぐさまThe Whoというロックグループの「四重人格」というアルバムを4500円で買った。

手元には500円が残った……(たいした落ちではない)

2012年7月10日火曜日

東京百景34「日野市豊田サンデーサン」

もうすでにサンデーサンはない。結構大好きなファミレスの一つだった。ちなみにアイホップも無くなってしまった。

さて1993年、結婚することになって新居を構えたのが、日野市豊田だった。
一人暮らしの居城だった調布のアルカディア鈴木に結婚相手、妹、妹の旦那が集結、レンタカーでハイエースを借りてきての引越。これが独力で行った最後の引越だった。30代前半だったし、一人暮らしの荷物などたかが知れていたからだった。

国道20号は当時、日野バイパス開通前なので、日野橋を渡り、日野駅の側を通り、日野坂を登った。その先を左折すれば豊田駅北口だ。

引越を手伝ってくれた妹夫婦へのお礼が、サンデーサンでの食事だった。

数年後、妹夫婦も離婚し、我々も離婚する事になるのだが、その時はまさかそんな日が訪れるとは思ってもみなかった。

そのサンデーサンは、現在ココス豊田店になっている。サンデーサンはゼンショーグループである日本の企業で、ほとんどがココスに変わっているようだ。ちなみにアイホップは、カリフォルニアに本社を置くレストランチェーンで、日本では最初長崎屋の外食部門が提携して運営していた。