SONGS 1983-1985


汚れた世界
no.8   1983年作
汚れた世界を見渡せば
嘘つきばかりが町をうろつく
汚れた世界を見渡せば
裏切り者がすまし顔

親友なんて言葉に
どれだけだまされたのか
お前はもう気付いたはず
あいつの汚れた心を
それでもお前はあいつの
所へ走ろうとしてる

一人で居るのは
そんなに怖いことなの

汚れた世界を見渡せば
嘘つきばかりが町をうろつく
汚れた世界を見渡せば
裏切り者がすまし顔

愛してるというセリフを
呪文のように繰り返され
夢見心地のままでさまよう
汚れた世界を
いつかはあいつも平気で
お前を捨て去ることだろう

そのとき見えるさ
曇りのない目で、この世が

汚れた世界を見渡せば
嘘つきばかりが町をうろつく
汚れた世界を見渡せば
裏切り者がすまし顔
 「汚れた世界」なんていうのも、ダサい歌詞だなあ、と思います。根本的には「孤独のヒーロー」と同じスタンスに立って、書かれているようです。
 この頃、一番聞いていたのがTHE WHOの「四重人格」というアルバムで、前にも書いたように「さらば青春の光」というタイトルで映画化されています。
 THE WHOに関しては、MY HEROSに詳しく書くつもりです。ビートルズやローリングストーンズと列び賞されても然るべきバンドが、日本では過少評価されているので、腹立たしく思います。
 このころ、新しいギターを買っています。ちなみにこの翌年の84年には、シンセサイザーと4チャンネルカセットデッキを購入することになります。
83年に引っ越しをして杉並の方南町に住み始め、4畳半の部屋で、音楽を作っていました。
 TOKYO EARLY 10 YEARS 1983 で分かると思いますが、電気工事というハードな仕事をして、職人体質に親しんだ結果、僕のプライドや感性といったものがずたずたに引き裂かれ、かなり落ち込んだ時期でした。

MY HEROS…ホームページを立ち上げた当初は、ホームページの1コーナーとしてミュージシャンを紹介するページを置いていたが、現在はaltvenry's Who Pagesとして1サイトとなっている。

TOKYO EARLY 10 YEARS 1983…現在はTOKYO EARLY 3 YEARS -1983年- となっています。
no.11  1984年作
このままどこへ歩いていこうと
戻れる場所があるのさ
恐らく誰にも分かりはしない
世界が僕を待ってる

何時だってそれを信じて
旅に出掛ける
他人の瞳の中の僕は偽者

このままどこへ歩いていこうと
戻れる場所があるのさ
どれだけ優れた心理も届かぬ
世界を僕は持ってる

一人では何もできぬと
施に出掛けた
本当の僕を探して彷徨う

このままどこへ歩いていこうと
戻れる場所があるのさ

そして今、旅に疲れて
人の流れに逆らって
例え傷付き、血を流しても
帰れる場所があるのさ
  「何処へ」という曲には、どこかへいってしまいそうな僕の弱さに対し、自分らしさを構築する決意というか願いを書いたつもりでした。
 そして、ビートルズの「アクロス・ジ・ユニバース」の「何も自分の世界を変えるものはない。」というフレーズがずっと頭の中で鳴っていたそんな時期ではあるのです。
 この「何処へ」という曲は初めてシンセサイザーを使って作曲した曲でした。今まではギターでコードをかき鳴らしてメロディーを載っける、という手法でしたが、それだとこの曲はできなかったでしょう。
 電気工事の仕事で心身がぼろぼろになった後に再び音楽にひたれる日々を取り戻した、という感じでした。
 電気工事の後で見つけたバイトは、照明機具の配達というもので、一日中車にのって関東一円を走り回っていました。ラジオは、ずっとFENにセットしてあり、好きな音楽が流れていました。例えば、ジェネシスの「ザッツ・オール」、ユーリズミックスの「ヒア・カムズ・ザ・レイン・アゲイン」、アラン・パーソンズ・プロジェクトの「ドント・アンサー・ミー」等は、この頃の名曲だと思います。
バンド「アルトベンリ」の方といえば、いつのまにか、二人抜け、新たにひとり加わり、なんとか生き延びていました。
no.13  1985年作
窓辺にもたれてゴミを捨てた
一人の男がそれを拾う
部屋には有り余るほど
ゴミが残ってた

無意味なもの
そのすべてをゴミというのさ

窓辺にもたれてゴミを捨てた
一人の女がそれを拾う
すべてのゴミを残らず
窓の外に投げた

無意味なもの
唯一つだけを部屋に残して

通りに戯れる多くの人々が
一つ残らずゴミを拾っていった
時は過ぎてそこには
だれ一人居なくなる
最後に残された答えを探すだけ

窓辺にもたれてゴミを捨てた
誰もそんな物を拾いはしない
世間はアスファルトの上の
冷たい体を
見向きもせず気にも留めないで
通りを急ぐ

無意味なもの
そのすべてをゴミというのさ
  シンセサイザーと4チャンネルカセットデッキのおかげで曲づくりに幅が出て来ました。歌詞の方も初期にくらべれば、マトモになって来ており、言葉のボキャブラリーは少ないものの、自分なりに納得のいく作品が出来上がったと思っています。
 その代表として、まずこの「ゴミ」があります。解説する段になって、一抹の恥ずかしさも感じますが、まあ、昔のことなので…。
 ゴミというのは、芸術作品のことです。とりもなおさず、音楽のことです。誰かにとっては、ゴミでもそれを必要とする人はいるものだ、ということをまず言っています。そして最後に残されたゴミは、芸術家本人であります。そしてそれは価値などなく、拾う人などいないということを意味しています。「無意味なもの、そのすべてをゴミというのさ。」というフレーズ、何となくロックしていて、いまでも好きですね。
 さて、これは明らかに太宰治の影響がある。確かに太宰という人の生き方は、あまりほめられたものではない。ただその作品は、いつまでも人に読み続けられるに違いない。えてしてその作者と作品は同等に扱われることが多いのだけれど「俺のことなど、どうでもいいから、俺の作ったものを見てくれ。」という姿勢をなぜか当時は気に入っていました。
うわさ
no.14  1985年作
うわさに踊らされて
君を追いかけている
微笑みの中に嘘を見付けたとき
君の涙を見たいと思った

うわさに踊らされて
君を追いかけている
例えば昔君を愛していたときの
気持ちとどこかが似ている

うわさはうわさを呼び
君は疑惑に包まれ
部屋の窓を閉ざして
外へ出ることもない

うわさは煙のように
町を漂いはじめ
人々の憎しみは
鈍くお前を突き刺す

凍て付いた冬の朝
一つの命が消えた
真実は分からずに
うわさだけが消え行く

何もなかったように
人込みは流れてく
遠ざかる思い出は
セピアに色褪せる
けれども記憶の片隅で
不安な気持ちを掻き立てる
  「うわさ」という曲も「ゴミ」と同じ頃に作られ、僕の中では、お気に入りの一曲でした。内用としては、マスコミの過剰な反応を皮肉ったもので、昔好きだったあるアイドルが、マスコミの過剰なまでの質問攻めにあっているのをテレビで見て、イメージを膨らませて作りあげたものです。
 サウンド的には、ストラングラーズ2枚目のアルバム、「ノー・モア・ヒーローズ」の中の一曲、「疎外されて」を意識して作りました。
 この頃のサウンドは、ストラングラーズとジャムにどっぷりと浸かっています。両バンドとも70年代後期から、80年代初期に活躍したイギリスのバンドで、最初の頃は、セックス・ピストルズやクラッシュなどとまとめられパンク・ロックといわれていました。
 ストラングラーズを今聞いて、パンクというカテゴリーにあてはめることはできないだろうと思います。
 特にジャムに関しては、最初の頃から自分達で、「俺達はパンクじゃない。ネオモッズだ。」などといってました。モッズというのは、60年代のイギリスの若者文化のひとつで、派手なジャケットを着て、軍隊用のモスグリーンのコートを羽織り、カスタマイズした派手なスクーターを乗り回していた集団のことです。そんな簡単なものでもないのでしょうが、その延長戦上にあるのが俺達だ、といいたかったのでしょう。実際ジャムのファンも含めニューモッズというスタイルが一部に存在していたようです。
男達のすみか
no.15  1985年作
見捨てられた荒野を北へ
国境近くに小屋が見えたら
おそらくそこが男達のすみか

敵の目を掠めては
向こうの領土に足を潜み入れ
女をさらってきて渇きを癒す

国境近くには今日も
多くの男達が
男であるためにだけ
集まってくる

見捨てられた荒野を北へ
国境近くに小屋が見えたら
おそらくそこが男達のすみか

国境近くに爆弾の雨
危険と危険の隙間を縫って
死と裏腹の人生を
生きているのさ

国境近くにはいつも
甘い香りに酔う
ドランカー達の群れが
幻を見ている
  「男達のすみか」や「フラワーショップ」という曲は、ジャムの影響をもろ受けています。
 ところで60年代モッズのアイドルといえば、THE WHOでした。当然のごとく、ジャムはWHOの影響を受けているわけです。WHOの曲もカバーしています。その割には、両者とも相手には手厳しく、WHOのピート・タウンゼンドが、「ジャムはユーモアのセンスがなく真面目すぎる。」といえば、ジャムのポール・ウェラーも「WHOはもう過去のバンドだ。潔く解散すべきだ。」という始末でした。
 結局、ジャムが先に解散してしまった。まるでWHOに見せつけるがごとく、潔く突然に・・・。
 その後ポール・ウェラーは、スタイルカウンシルというユニットを結成しより広い音楽性を追求してゆくことになる。
 さあ、自作の曲の解説に戻りましょう。「男達のすみか」は、男の性を歌ったものである。なんていうとかっこいいが、まあ男ってしょうがないね、ということだ。用もないのに歌舞伎町当たりをぶらぶら歩き回るようなやつの話だね。イタイ目にあうのが関の山で、早々いい話など転がってはいないのである。
フラワーショップ
no.16  1985年作
人気のない裏通りに
小さなフラワーショップ
幸福な時代ならは
稼ぎもあるだろう

黒い雲に覆われ
町は廃れていった
明日の命さえ分かりはしない
倒れた者たちを哀れんで
花は飾られる

人気のない裏通りに
小さなフラワーショップ
変わり者の男がいつも
店の中座ってた

闇にサイレンの音
危険な空気の中で
黙って見ているざわめく町を
倒れた者たちを哀れんで
花は飾られる

悪い夢と言うには
多くが傷付き過ぎた
希望のかけらはどこにも見えない
倒れた者たちを哀れんで
花は飾られる

荒れ果てたこの町に
小さなフラワーショップ
荒れ果てた人の心を
慰められるのか
小さな‥・
フラワーショップ
  そして「フラワー・ショップ」は、反戦の歌のようだが、これもまた芸術論を展開していて、音楽というものが、現実の生活の中で、どれだけ役に立つだろうかなー、ということを歌にしたものだ。つまり花屋は、アーティストのことなんですなあ。
 1984年から1985年にかけては、池袋のホテルWHITE CITY(だったかな?)でボイラー管理をしていた。朝9時から、翌朝9時までの24時間勤務で、仮眠時間もあったから、次の日も有効に使えた。朝9時にあがって、マクドナルドで朝食を食べて、西武の上の方にある本屋で文庫本を漁って、丸ノ内線でゆっくり帰った。
 この頃、カミュやカフカなどのシュールレアリスムにはまっていた。正直いって良く分からなかった。もっと哲学的になると、サルトルやニーチェを読まなくてはならなかったが、めんどくさくて、とても読む気がしなかった。何故この方向にいったのかというと、それより先に阿刀田高が、ギリシャ神話を少し読みやすくした本を出していて、その中にあったシーシュポスの話に興味が惹かれたからであった。
 前後の話は忘れてしまったが、シーシュポスという人は、何かのバツで、自分と同じくらい丈のある球状の岩石を山の頂上まで転がしてゆくという課題を与えられていて、頂上に辿り着いたとたん岩石は転がって、ふもとの方まで落ちてゆくが、またそれを頂上まで運んでいくのだった。
NEWS
no.17  1985年作
毎日必ずだれかが死んで
交通事故には目もくれない
命一つの重さを忘れ
死人の数だけ騒ぎ立ててる

飛行機事故のNEWSの下の
君の名前をうっかり
見落としそうになった

毎日どこかでだれかが死んで
テレビを見つめる瞳は虚ろ
名字一つに心を乱し
他人と分かれば安心してる

飛行株事故のNEWSの下の
君の名前はほんとに
間違いではなかった

君と出会った日の夜
熱いまなざしで君は
夢は空を駆けることと
話していたね

毎日必ずだれかが死んで
あの日の君さえその一人さ
夢は夢のままで終わった
涙が流れて紙面を濡らす

飛行機事故のNEWSの下の
君の事などだれも気にせず
生きて行くだろう
取るに足らないNEWSさ
 何となく人生の縮図をそこに見た気がした。そして「シーシュポスの神話」という本を見つけると、作者が、たまたまカミュであったのだ。代表作の「異邦人」も読んだ。その流れから、カフカを知り「審判」をまず読んだ。
この「審判」がまた変な話で、何もしていない主人公が、まず逮捕されるところから始まり、裁判までにその理由を探し続けるが、結局犬のように殺されてしまうというのだ。話は簡単のようで、逆に不可解で謎に満ちている。
 それから、たまたまその延長戦上にあった日本の作家、安部公房氏に辿り着く。
 さあ、自作の解説を続けていこう。「NEWS」という曲は、1985年の日航ジャンボ機墜落事故がモチーフになっている。たいへん痛ましく残念な事故でありました。歌詞の方では、死者数の大きさばかりが話題となる報道というものに疑問を投げかける内容となっています。
 それにしても大きな事故でした。坂本九さんが亡くなったのが、残念です。「上を向いて歩こう」は、日本が誇れる名曲です。「見上げてごらん夜の星を」という曲も好きでした。
no.19  1982~3年作
町にはもう
夜の気配が
帰る人は皆
だれも急ぎ足

待っているのは子供達
手にはX-mas cakeを下げて
冬はまだ終わらない
だれかが凍えて死ぬまで

町にはもう
夜の気配が
遠くに輝く
窓の明り

中では笑い声が溢れ
微笑みあって愛を語って
冬はまだ終わらない
だれかが凍えて死ぬまで

町には雪が舞い始め
今日一日が過ぎていっても
冬はまだ終わらない
だれかが凍えて死ぬまで
  「イブの夜」は、1982年にすでに出来ていたのですが、この頃リメイクしたので、ここで取り上げています。東京に出て来て2年目、一人でイブの夜を過ごした時に書いた詩です。「冬はまだ終わらない。誰かが凍えて死ぬまで。」という所、イヤー暗いですね。ゾッとしますね。ただ表現としては、インパクトがあって、よく書けたと思っています。
 それにしても、この頃は全体に暗いですね。ただ、そうやって自分を追い込むことで、作品を作っていたという、そんな時期ではあるのです。
 1999年クリスマスシーズンにこの「ASPHERIC DREAM」のテーマ曲として使われていました。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。
altvenry1981年頃、JUNと呼ばれていたALTVENRY