2011年11月30日水曜日

イブの夜〜2008〜

イブの夜〜2008〜
1984、2008年
冬の町はすぐに
夜が訪れて
帰り支度に追われ
足早に走り去る

待っているのは子供達
手にはX-mas cakeを下げて
冬はまだ終わらない
だれかが凍えて死ぬまで

冬の町を隅まで
闇が包み込む
遠くに輝いてる
たくさんの窓明り

中では笑い声が溢れ
微笑みあって愛を語って
冬はまだ終わらない
だれかが凍えて死ぬまで

町には雪が舞い始め
今日一日が過ぎていっても
冬はまだ終わらない
だれかが凍えて死ぬまで
 2007年心臓手術をしたら、ずっと調子が良かったのに、2008年暮れに腹痛に襲われ、12月24日に消化器内科の先生から、明日(12月25日)肝胆膵外科を受診してくれと告げられた。その夜はイブだったので病人のくせにカラオケに繰り出した。
 25日受診、26日から入院、31、1、2日は家に戻ったが、3日には戻って5日に開腹手術。結果、ただの血管腫だったので問題がなかったけれど、リンパ腫なら抗がん剤だし、謎の腫瘍「GIST」の可能性もあったらしい……。

 重い話で恐縮です。
 この曲、実は1982年一人で過ごしたクリスマスをテーマに書かれた曲で、2008年に加筆訂正したもの。
 ただし「冬はまだ終わらない、誰かが凍えて死ぬまで」は、1982年にすでに書かれたもので、まさか26年たって、このような事が起こるとは思いませんでした。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月29日火曜日

巡礼


巡礼
2008年
七夕の夜に仲間に別れを
告げるパーティーで10年も前の
懐メロを歌い酔いつぶれていたーー

地下鉄に乗って帰路についたけれど
アパートの階段昇ることができず
そのまま眠りについてしまったーー

あれはまだ二十歳過ぎの
一人暮らしに慣れはじめた頃
時はいたずらに過ぎ一人彷徨う旅を
巡礼と名付けてる

秋風の中でユートピアを求め
フローリング仕様のワンルームに住んで
友との絆を感じながらもーー

見つけた恋の終着駅に
幻想とは知らず突き進んでいった
何をやっても楽しさがあったーー

あれはまだ30代やっと逢えた喜びの中
時はいたずらに過ぎ一人彷徨う旅を
巡礼と名付けてる

終着点はスタートポイントでしかないと
幻想から覚めた夜の道

温もりを求めて帰路を歩くけれど
鉛を積めた靴の足取りは重く
三叉路を何度も曲がり損ねたーー

あれはまだ40代少し前の孤独の部屋で
タバコに火を付けて見てる煙の中明日が見えた
時はいたずらに過ぎ一人彷徨う旅を
巡礼と名付けてる
この投稿に付けられたラベル「SONGS X-」とは、ALTVENRYが作成した楽曲の内、2007年8月20日の心臓手術を施し、サイボーグ化された記念日以降に書かれた作品を意味する。その中でも2008年は、初頭に「一月に1曲を発表する」という誓いを立てた。なので、この「巡礼」が11曲目だから、11月の作品ということになる。過去の記録を見ると11月23日にアップされている。11月はThe Who の来日公演があったり、祖母の告別式があったり、かなりのハードスケジュールをこなしていて、この曲を発表した時にはすべて片付いてホッとしていたのだ。
 ところがである。12月を待たずして、謎の腹痛に教われる。救急外来に通う事3回、CTスキャン、胃カメラ等を駆使して、腹部に腫瘍が発見されたのは12月の中旬だった。続きはまた次の曲の場で……。この「巡礼」、音楽的には今一の作品なため音源はありませんが、余裕が有ればいずれ……。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月27日日曜日

東京百景20「吉祥寺南口」

1992年ころの話となる。ちなみに1987年からはずっと同じ会社にいて、支店を転々としていた。さらに2011年6月に退職したのが、まだ最近なので、職種、企業名はあえて書かないが、分かる人には分かるかもしれない。サービス業である。

1989年からずっと所属は吉祥寺南口にある支店だったが、なぜか近隣の府中、調布、武蔵小金井の支店にいることが多く、吉祥寺に戻るのは繁忙日の土日くらいだった。

武蔵小金井にいたから平日だろう。その時私は店長代理で、吉祥寺の後輩と二人勤務だった。
「最近、吉祥寺にバイトが入ったんです」
後輩が何気なく言う。
「へえー」
「美人なんですけど、ちょっと年食ってるみたいで……」

それが第1報で、数日後実際、この眼で拝見した。一つ年下だから確かに20代ではない。それに特に美人という意識はなかった(周りの人はそう言うが……)。だけどなんだか気が合いそうだったので、映画に誘った。

これが縁で、翌年4月に結婚することになるとは、29歳で「婚活」にいそしんだ頃には思いもしなかった事だ。30歳を過ぎてからは、「婚活」など、どこ吹く風と斜に構えてきただけにまさかの結果だった。

2011年11月25日金曜日

東京百景19「武蔵境線路沿いテニスコート」

1990年頃の話である。

 30歳という大台が迫ってきていた。1987年に入社した職場では、ステップアップして中堅になっていた。そして管理職、つまり店長を目指すにはもう一踏ん張りであった。好きで独身を貫いてきたわけではないが、ここらで身を固めなければと思ったのだろう。

 とにかく今までと縁遠かった屋外スポーツに精を出し始めたのは、そんな理由ではなかったか。今までは音楽とか読書とかインドア派を突っ走ってきたが、そんな事では出会いがないのは当たり前とでも思ったか、取りあえず自分改革に取り組んでいた。

 その一環で、社内で先輩が起ち上げたテニス同好会に真っ先に参加したというわけだった。週1回の活動だったが、仕事を終えて行きつけとなっている武蔵境のテニスコートに向かう。駅の北口を出て線路に沿って、三鷹方面に向かっていくと鬱蒼とした林の中にテニスコートがあって、そこはJR線路の脇なので、電車からは丸見えだった。

 2時間ほど汗を流して、終わってから皆で食事……というか飲み。さすがサラリーマンである。これが直接は婚活に結びつくわけはなかったが、内面的に自分を磨く努力だったんであろう。

 結局30歳の誕生日を向かえるまで婚活は続き、ターゲットは数人いたが絞れず、二兎追う物は……の鉄則通り、ターゲットには総スカンを食らった。30歳の自分へのご褒美に引越を敢行した。新築ワンルームは、初めてのエアコン付きで、バストイレ別のフローリングで、これもまた婚活の一環と言えなくもない。

 ちなみにこの武蔵境のテニスコートは、グーグルマップで見る限り、なくなっているようだ。

2011年11月23日水曜日

東京百景18「墨田区錦糸堀公園」

2000年に再婚して杉並区から江東区に引越した。しばらく職場は渋谷のままだったが、2002年やっと最寄りの錦糸町に異動することになった。

通勤は近いものの、人間関係などは最悪の環境だった。やはり上に立つ者の資質によって変わるのだということを思い知らされた。まあ上に行けない自分にも問題があったわけだから、今更言ってみても始まらない。まして現在そこを退職しているので、何も言う資格はない。

接客業でもあるから、喫煙には厳しい環境だった。我慢……できない。学生のように、こっそりトイレで……数回ある。ただ大抵は職場の近くにある錦糸堀公園で一服していた。
特に昼食後の十数分が、ゴールデンタイムだ。

銘柄は、段々弱い物に移行していって、この頃はラークメンソールの1mgタイプではなかったか。まさか2007年の心臓手術のために喫煙STOPとなることは、夢にも思わなかった。

2011年11月21日月曜日

東京百景17「江東区森下」

2000年、再婚して新居を構えたのが、江東区の森下だった。

カレーパン発祥の店があったり、老舗の有名居酒屋があったり、昔、深川と呼ばれていた界隈はその名残を残していた。

その年の12月に大江戸線が開通し、都営新宿線とのダブル利用できっともっと栄えるだろうと思っていたのだが……モスバーガーはなくなり……ちょっと待ち合わせにコーヒーを飲む所は、ドトールくらいになってしまった。まあ多少値段は上がるが「パレス」というカフェもある。食べ物は結構充実していてマレーカレーがおすすめだった。

10年住んで十分満喫したか、田舎の方へ引っ込んでしまったが、良い所だったと思う。惜しまれるのはスカイツリー完成前に引っ越してしまったことぐらいか。でもきっとスカイツリーのおかげで値崩れなく、マンションが売却出来たのだろう。

隅田川に架かる橋で、新大橋が一番好きなのは、一番利用したからだろうか。橋を渡って浜町や人形町などの日本橋界隈も闊歩した。

その10年の勤務地は、渋谷、錦糸町、千葉、上野、蒲田、船橋、東京、細かい所だと本八幡、松戸、柏、浜松町、新橋、銀座、御徒町、日本橋、葛西、浦安、大森等々……。まあ、どこへ行くにも便利だったのだ。

2011年11月19日土曜日

東京百景16「世田谷区代沢1丁目バス停付近」

1983年の春頃、上京後5番目のアルバイトは、東京日光堂というカラオケテープの卸屋だった。

 上京して最初に住んだのが、小田急線の百合ヶ丘だった(全然東京じゃない……)。新宿でアルバイトする事が多かったが、ここで初めて梅ヶ丘という駅で乗り換えする。それも初めてバス併用通勤だ。バスも小田急で、当時定期は、成城学園駅の南口とかに行かないと買えなかったと思う。

 カラオケBOX登場の少し前、媒体は8トラックテープで、業界大手の第一興商を追い越せというのが目標だったのではなかったか。ちなみに1988年カラオケルーム「ビッグエコー」、1994年通信カラオケ「DAM」と第一興商は常に時代をリードしてきたし、同業者が合併、撤退を繰り返す中、現在も第1線から退いていない。

 東京日光堂、今や検索してもなんの痕跡もないが、私服だったし、髪型も自由だったし、なんとなく業界風な職場だった気がする。淡島通りの代沢1丁目というバス停から歩いて、脇道に入った所にあった。

 販売会議にもアルバイトの分際で参加していた。
「3年目の浮気」で有名なヒロシ&キーボーの新曲「5年目の破局」っていうのが、発売されるんだけど、売れるかどうか?という命題だったろうか。満場一致で「売れる!」と大量注文をかけたが、結局売れなかった。

 そこでの仕事は、取引先にテープを発送するために、注文書を見て、一通り揃えて箱詰め、梱包し、宅配業者に渡す、というものだった。取引先は、クラブやパブやスナックといったところで、酒を飲みながら、余興で歌うといったスタンスがその頃のカラオケで、曲目も演歌がほとんどだったが、村下孝蔵の「初恋」や上田正樹の「悲しい色やね」もあった。


 社員旅行で大島まで連れて行ってもらったのに、また悪い病気で出社拒否をして、わだかまりを残したまま、辞めてしまった。もし覚えてる方がいたら「ごめんなさい」
 
 そして夏になり、新しいバイトを求めて、杉並区の方南町へ行くのだが……(興味がある方は、星空文庫「ゼームス坂マンションストーリー」をご覧あれ!)

2011年11月18日金曜日

東京百景15「世田谷区豪徳寺」

1981年、アイドル石野真子が長渕剛と結婚して引退した。

 当時高校生だった我が妹は、長渕でなく真子ちゃんの大ファンだった。実際石野真子の女性ファンは結構いるようで、石野と同じ「スター誕生」出身の小泉今日子や堀ちえみのあこがれだったらしい。

 夏休みになると妹が私のアパートに泊まりにきては、東京見物をするのが恒例だったが、私が上京して2年目の1982年、この年の大目的は引退した真子ちゃんに会いにいく、というものだった。昨年の夏は渋谷公会堂まで同行させられた。

 妹の情報では、小田急線の豪徳寺から南下したあたりのマンションに彼らの新居があるらしかった。当時小田急線を利用していたし、地理にはまあまあ明るかったから、初めて豪徳寺で下車して、世田谷線沿いを歩いた。

 目的のマンションに到着。表札はあったか、なかったか忘れたが、どうもその部屋らしい。男が行くと怪しまれるので、妹一人ドア前にて呼び鈴を押す。返事はない。もう一度押す。何の音沙汰もない。妹はメモ用紙に何かコメントを残し、郵便受けにするりと忍び込ませてきた。

 あれから29年、石野真子は1983年には長渕と別れすぐに芸能界に復帰し、最近でもドラマにその姿を見かける。我が妹も、小学生の娘をかかえて奮闘している。その娘、つまり私にとっての姪も、なぜか男性アイドルではなくモーニング娘。それもドリームモーニング娘が好きだというから、面白い。まあまだ小学生なので……先の事は分からないが……。


2011年11月16日水曜日

バベル


バベル
2008年作
寂しげな瞳の中
きらめく星の向うに
閉ざしたはずの心が投げかける疑惑が渦を巻く

例えば誰かに夢を
打ち明けた時でさえも
閉ざした心の鍵はしっかりと握りしめていて

嘆き悲しむその姿
いつもこの目にしてきたけれど
夜明けの空に消えてく
星の明かりに未来が見える

行く手を阻むものなく
そびえ立つ夢の塔を
その瞳に見据えてる足下を見ることもなく

暗い谷間を渡る風
まるでウイルスの様に忍びよる
不信と裏切り時には恐れを
知らない愚かな行い

遥か昔作られた
天空に向かう塔は
混乱の中に消えて振り返ることもできない

たいそれた野心なんて
抱くはずはないけれど
通じ合える架け橋を
作ろうとしていたかもしれない

輝く未来に残せる何かを
今日も気付かずに作ってる

築き上げたとき思わぬドラマに
流され行くのも人の運命(さだめ)
 2008年10月に作った曲です。この頃住んでいたマンションは11階部にあったので、隅田川の花火大会や工事中のスカイツリーがよく見えました。経済的にそこに居続けられなくなったとはいえ、良い所でした。ちなみにこの曲のモチーフはやっぱりスカイツリーでしょうね。人はなぜ空に向かって塔を建てるのか。別に神に近づこうなんて思わないですよねえ。今ならクローン技術とかですね、神の領域に近いっていうとねえ。
 さてこの頃は11月のThe Who来日が視野に入って来てました。13日の大阪城ホールに始まり、14日は横浜アリーナ、16日はさいたまスーパーアリーナ、17日と19日が武道館という流れの中、横浜参戦後、祖母の告別式のため、夜行で富山に向かい、15日滞りなく仏事を終え1泊し、16日富山から埼玉という強行軍は、想い出ですね。当初はそれだけだったのですが、結局当日券を買って19日に武道館も参戦することになったのでした。
 職場は、上野に戻ってきていて、なぜか意味不明の千葉勤務でしたね。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月15日火曜日

東京百景14「新宿中村屋本店」

1993年、訳あってこじんまりとした人前結婚式をあげたのが、新宿中村屋のパーティールームだった。互いの親族の代表を集めて計10数人が出席、おじさんに司会進行をお願いして、式次第は自分で考えた。挨拶文や指輪を準備してその時に臨んだ。
 そこまでしながら1998年に別居、1999年離婚となる。
 ちなみに、その中村屋もホームページを見ると立て替えのため、仮店舗で営業中とのこと。
 確実に時は流れている。

2011年11月14日月曜日

東京百景13「京王線千歳烏山」

1992年、調布市入間町に住んでいたので、最寄りの駅(といっても徒歩20分)仙川から一駅新宿側が千歳烏山駅だった。7月頃から付き合いはじめた彼女と結婚しようということになり、何かと必要かとまず車を買う事にした。父の代からトヨタだった(ちなみに現在はマツダだが)ので、国道20号線烏山交差点付近の支店を訪ねた。
 気の弱そうな担当者に希望のカラーとか設備を告げ、おまけもお願いして、数日後に納車された。この車はデートはもちろん、両親を引き合わせる際も東京駅まで行ったりして、随分役に立った。いろんな想い出を作り上げた立役者だった。
 1999年VITSに買い替えるまで頑張った偉い奴だ。その年離婚が決まったオーナーよりも立派だった。
 2011年、グーグルストリートビューで見ると、烏山支店はもぬけの殻、テナント募集となっていた。時の流れだ。

2011年11月13日日曜日

アルバムの中の「私」


アルバムの中の「私」
2008年作
風の音にいやされてるのは
長くつらい旅が終わるから
君と離ればなれになーって
一人サミシサをかみしめてた

安らかなる時のゆりかごは
眠りを誘う振動つづけ
母親の乳房を求めてる
幼子みたいに微睡んでいる

刹那さに心まで
悩まされ涙に暮れてた
あの時からこんな日々が
来るなんて思いも寄らずに
諦めないで時間が心の
澱みを洗い流してく

遠く遙か思いえがいてた
希望にかがやくはずの未来
予測なんてだれにも無意味と
ニュースキャスターは知らない顔

目のまえの嫌なこともいつか
どこか見えないとこに消え失せ
つらく悲しいおもいでひめた
苦しんでいた日々にさよなら

闇の中眠れずに
ラジオのスイッチひねれば
ジョークでさえあたたかな
語り手のやさしさが見える
時には朝を待つのもいいさ
思わぬ景色に出会える

哀しみも喜びも
いつの日か思い出に変るから
過ぎ去る夏を記憶に留めて
ページの中に閉ざして

時にはアルバムめくって今の
「私」と比べて微笑む
 2008年9月、一月一曲プロジェクトの9作目であった。このソフトに歌いかける手法は、その頃の「そばにいるね」等にインスパイアされたのかもしれない。
 8月に異動があって、なぜか千葉に通っていた。2003年頃にも千葉に行っていたので通勤は慣れたものだ。それでも遠い事には間違いない。馬喰町から総武線快速に乗るコースだが、帰りは本八幡から帰ったり、錦糸町から帰ったり、気分で選んでいた。そして乗換駅では数分のゴールデンタイム。これは喫煙時代ならば一服なのだが、吸えなくなってからは、スイート&ドリンク。これで体重が増えず減っていったのは、ひとえに休日のジムとプールのおかげだ。
 8月20日の手術、9月11日の退院も1年経つのだが、不思議なくらい健康だった。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

東京百景12「万世橋警察署」

先に言う。これは誤って引っ張られた話だ。

 1986年、神田界隈で家電修理の仕事をしていた頃……。主にいわゆるウォークマン系の修理を一日何台こなせるかで、評価されていた。同僚と二人で、台数を稼ごうと退社時刻を過ぎても仕事を続けていた。8時を過ぎた頃、「腹減ったよね」ということで、私は一人会社にあったママチャリ(自転車)に乗って買い出しに出たのだった。
 途中で警官の尋問にあったが、後ろめたい事など毛頭ないので、ノルマをこなすために残業をしてるんです、などと半ば自慢げに話をしていた。
「それはたいへんですね。ご苦労様です」
と相槌を打ってくれてもいたのだ。ところがもう一人の警官が、私の知らない所で自転車の登録No.を調べていた。
「ところで、この自転車、会社の?」
「そ、そうですよ」
あえて聞かれると自信がない。
 彼らが豹変したのは、そこからだった。いきなり犯罪者扱いだ。
「おい、嘘つくな!一緒に来い!」
連れてこられたのが、万世橋警察署。どうも登録してある名前が会社ではなかったようだ。
 取調室に入るのは2回目だが、1回目は新宿警察で、これは被害者だった。今回は容疑者だ。
「お前の会社は、泥棒をするのか!」
そういって、机をドンドンと叩く。ドラマと一緒だ。犯罪者になりたくはないが、会社をかばいたい気持ちもあって、ストレートに言葉が出ない。
 数分後取調官が、一旦退席してまた戻ってきた。この時は普通の人に戻っていた。
「お宅の会社の社長に電話したら、知り合いからもらったっていうんだな……ちゃんと登録しとかないから……」とお茶を濁して消えた。
 私をしょっぴいた警官も現場に戻ったのか、姿が見えなかった。
 自転車を返してもらった別の警官に、
「この辺に夜食買えそうな所、ないですか?」
というくらいが当時の私のせめてもの反抗だった。内心は、早くそこを去りたい、無実で良かった、そういう思いだった。

ちなみにこの1986年5月頃、ダイアナ妃が来日してる最中だった。警察も躍起になってたのだろうか。

2011年11月12日土曜日

ノイズの向うの真実


ノイズの向うの真実
2008年作
確かな記憶だけ追い求めてる雨の中で
ワイパー越しに見る久しぶりの故郷の街に
訪れ……過ぎ去る歩行者に
あの日の少年を重ね合わせてみてる

誰にも話せない話したくない古い傷に
触れてはいけないと背中を向けて煙草を吸う
閉ざした扉にかけられた鍵を開くことは
すぐには出来ないだろう

遠ざかる夢の彼方で呼んでる声は
雑音だらけの言葉の世界で消され
頼りないけれどさあどこまでも歩いてく一緒に

倒れて血を流す力なきものを踏みにじる
頭を抱えてるノイローゼの吹きだまりさえ
怯えて……ロッカーに鍵をかけ
従う振りをして微笑みを絶やさずに

飛び交う情報の渦に巻き込まれた感情
頼みの知識さえ剥げ落ちた粉飾メッキと
途切れた回線は異常の赤いランプ灯す
受け入れられない事態

遠ざかる夢の彼方で呼んでる声は
雑音だらけの言葉の世界で消され
頼りないけれどさあどこまでも続いてく時間の

流れに身を寄せ意識をノイズの向うに

真実の声はかぼそく弱くてもろい
時には勢いのある罵声にどやされ怯える
だけど微笑んでさあ歩き続けていこう一緒に

遠ざかる夢の彼方で誰かが手招きしてる 
雑音だらけの言葉の破片が額に刺さってる
血は流れなくても心に傷を無数にこさえる
きっと君がいるからこうやって歩いていける
 2008年、一月一曲プロジェクトにより8月に発表された。今回は疾走感を出す事を目標としていたので、まあまあの出来だろうか。比較的好みのコード進行に裏付けされて歌い込んでいる感じだ。
 言葉数を増やした事が疾走感に繋がってもいると思うが、「剥げ落ちた粉飾メッキ」「異常の赤いランプ」といったアイテムが、自然にわき上がった所を、「でかした!」と言ってやりたい。
 2007年の心臓手術からやっと1年経ち、休日にはプールでリハビリもしていた。自宅療養期間に5キロ増やした体重を元に戻し、さらに5キロ落とし20歳頃の体重に戻しつつあった。だが下っ腹だけはなかなか引っ込まなかったので、腹筋もジムに通って鍛えていた。これが結局年末の入院にとつながるのだが、この頃はまだ体重を落としていく事に快感を感じていた。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

東京百景11「浜松町、文化放送近辺」

2005年から2007年にかけて、大田区蒲田に通っていた。大江戸線と京浜東北線の乗り換えで、地下に降りたり、地上に昇ったり……。この大門から竹芝埠頭へ向かう道の脇脇に喫煙コーナーがあって、朝晩スモーカーのたまり場になっていた。出勤と帰宅時、数分のトリップを味わう。
 ところがである。2007年8月に心臓手術が決定する1ヶ月前、禁煙せざるを得なくなった。生きるためである。といいながら朝晩のこのゴールデンタイムを失う事は出来ず、朝はガムorキャンデー、帰宅時はドリンクandおやつタイムとなった。文化放送1階のローソンにはお世話になった。

2011年11月11日金曜日

東京百景10「環八沿いヤマダ」

1998年のこと。訳あって別居中で、東高円寺にワンルームを借りて住んでいた頃、青梅街道から五日市街道に入って環八を左折して、しばらく行くと家電量販店を見つけた。ワンルームには何もなかったので、最初にここでミニコンポを買った。その時、i-Macを見つけた。そうだ、スティーブ・ジョブズ復帰後の最初のGREAT WORKだった。その頃はそんな事は知らず、それがコンピューターである事に驚いた。
 その1ヶ月後の12月の暮れ、それを買っていたのだ。すべてが初めてだった。ウインドウズは会社で使っていたので、キーボード操作はまあまあだった。その頃の3大ソフトはワープロ、表計算、データベースというものだったが、「それがどうした!」と言わんばかりの創造性に溢れた代物だった。もちろんクラリスワークスはあったので、十分だったが、それ以上のものがあった。
 ショックだったのが、その2週間後にカラーが5色に増えた。それもCMのBGMにストーンズの「シーズ・ア・レインボー」を使っていたのがショックだった。好きな曲だからだ。ただ5色に心を奪われたが、初代のボンダイブルーが秀逸だと思う。

サスフォー


サスフォー
2008年作
再生の夢に囚われて
無くした記憶をまさぐる
どこまでも続く砂浜に足跡見つけて振り向く
ストライプのシャツ脱ぎ捨てた肌に
ペイントされた蝶が舞う

喧噪の中で聞こえてる
埋もれたサインに振り向け
流れ行く時はいたずらに間違いを正す事もなく
スロープを滑り金網の向う
歪んだ日常飛び越え

風に揺らいだ頬を擦れる髪
一夏の思い出に
明日のことさえ考えられない
重ねた指先を見る

青い海空と解け合って
沖を行く船に手を振る
唐突に脳裏を掠める記憶の欠片に怯える
スローモーションで時が遡り
底知れぬ絶望に遭う

翳す手のひら眩しさを避ける
仕草さえ幻と
深い記憶の中に刻まれた
裸身の姿に似て

数えきれない夢のリフレインは
果てしなく傷つける
流す涙の意味さえ分からず
さよなら告げる人が
夏と共に消えてゆく
 2002年、今は無きNEXTMUSICに投稿された「夏の邂逅」は、画期的な評判を得たにもかかわらず、サイトは閉鎖されてしまった。WEB上ではこの自身のYou Tubeサイト「Slip! Trip! Strip!」で試聴出来る。
 この曲を元に『小説「夏の邂逅」プロジェクト』も発足して、随所に細かい矛盾点を残しながらも一応完成はした。しかし出来が今一のためさらに推敲中となり、現在も完成には至っていない。
 さて、この「サスフォー」という歌は、2008年「一月一曲プロジェクト」に乗っ取って、7月に7曲目として発表された。タイトルは出だしのコードSUS4であることは、音楽に詳しい方ならすぐにピンとくるであろう。そして歌詞の中身であるが、『小説「夏の邂逅」プロジェクト』の一部が引用されている。
 しかしこの曲の聞き所は、サビのメロディーと多分ボーカルの妙というか、自身お気に入りだったりする。そしてフュージョン張りのギターソロも素人にしては改心の出来ではないかと自負している。 コメント
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月10日木曜日

坂道の記憶

坂道の記憶
2008年作
階段を登れば見えてくる丘の上の
夢幻という名前の木造アパート
思い出を語らう友の声が聞こえてきて
明け方の始発で海に行こう

あの頃は坂道下ってるなんて
思いもしなかった
やがてくるその時をこの手にするのなら
傷つきはしない踊り疲れても

階段を登れば木々の中異彩放つ
懐かしい思い出詰まったアパート
さよならも言えないで
気まぐれにまかせたまま
もう2度と戻れない旅が始まる

あの頃も坂道下ってるなんて
思いもしなかった
やがてくるその時を夢に描きながら
ストレス飲み込む夜更けの盛り場で

坂道を上るイメージで
いつも仕事をこなしてきた
知識を身につけ、要領もつかみ、
力もついてきた
ライバルは消えて一人
マイペースで優々生きてきた
思えばそれこそ坂の頂上に
向かっていたと気づく

今日はなぜ坂道下ってるように感じてるんだろう
もう来ないその時は思い出の中に捨てて
痛みを感じる暗く淀んだ部屋で
 坂道を登って丘の上に見えるは、19歳に住みはじめたアパートである。この頃の事は星空文庫の『TOKYO EARLY 3 YEARS −1981年−』に詳しい。
 小田急線の百合が丘から読売ランドの間にあって、住所だと高石だった。住みはじめた頃、多摩区が分れて麻生区が誕生する。その頃新百合が丘という駅は、駅以外に何もない寂しい所だった。山間部なので坂道はいたるところに存在する。このアパートは見晴らしが良かったので、バンドの仲間が時々泊まりにくる事もあった。当時は新宿や下北沢で騒ぐ事が多かったから、終電でここに来るような感じだった。
 さて坂道はもちろん人生でどこが頂上かは知らないが、取りあえずそこまで登ろうというわけだ。だがその頂上には気づかず、いつの間にか坂を下っているとしたら……もう、登る事はないのだろうか?
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月9日水曜日

Flight Plan


Flight Plan
2008年作
交わした言葉の数だけ
伝わる想いもあればと
かすかな期待を寄せても
つまりは自身のためだけ

救いの天使は哀れみ
情けに身を寄せ一夜を
過ごしてみるけど朝には
醜い姿に変わってる

フライトプランを信じて
急いでエアポートに乗り付け
搭乗手続きすませば誰かに
呼び止められても振り向きはしない

刃を研いでる夜更けに
静かな不安に襲われ
はがれた仮面を脱ぎ捨て
素顔でこの世を呪ってる

フライトプランにはなかった
セキュリティーチェックに戸惑う
思いもかけない悪意の仕業に
なす術なくして空を見上げてる

わずかな希望を求めて
世界の出口を探してる
虚ろな天使の姿が記憶に閉ざされ眠ってる

フライトプランには僅かな
誰にも気付かぬ過ちが
暗闇にいつか一筋の光
希望が羽ばたく大空めがけて

離陸準備…
セイフティベルト…
眼下に小さな束縛の世界
過去から抜け出し自由を求めて
 2008年、ひと月に1曲を目標に5月17日に発表したこの年5作品目。
 昨年の手術後に身体に無理のないよう、ストレスを溜め込まないよう気をつけていたにも関わらず、職場の人間関係に疲れていたので、春先に八重洲から上野に戻ったことは大正解だった。フライトプランは大成功だったということなんだろう。
以下は当時のブログからの引用です。「 しかし街並は少しずつ変化を遂げていますね。良かったのは、ヨドバシカメラ上野店が、場所を変えてパワーアップしたことでしょうか。もちろん秋葉原には適いませんが、以前よりも品揃えが良くなり、フロアが見やすくなりましたね。ヨドバシの回し者ではありません。ビックカメラもヤマダ電気も利用したことがありますから。最近はないけど……。

 後は、私の働く職場がきれいになってましたね。普通は店舗の方だけで、控え室とかは変んないんだけど、なんと洋式トイレになってました!ちょっと感動。でも蒲田とかはウォシュレットだったなあ……、まあそこまでは望めないですかね。」 
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月8日火曜日

東京百景9「世田谷区経堂」

第9回「世田谷区経堂」

1982年頃、まだ上京して間もない頃、新宿歌舞伎町でアルバイトをしていた時に、ヤクザにボコボコにされたことがあって、小田急線で百合が丘から通っていたのに、途中下車の経堂駅で外科クリニックを見つけてお世話になった。なぜ経堂だったのか、全く覚えていないが、多分、駅や車窓から見る街の雰囲気だったのだろうかと思う。
1992年頃、きちんと会社勤めをしていた僕は、調布市入間町に住んでいた。新宿で飲むと最後は決まって終電に乗り、経堂で降ろされてしまう。タクシーを拾うほどの余裕もなかったので、大体歩いて帰った。1時間強だったと記憶している。
2000年を過ぎた頃、評判のラーメン屋を訪ねて、その頃住んでいた江東区森下から夫婦で訪れたのが最後だったろうか。


 1982年頃の話は、星空文庫の 「TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年−」を参考にされたし……。

サイレント・ライフ


サイレント・ライフ
2008年作
深い悲しみに心奪われて身動きできない
明日が来ることなんて今は気にしたくない
空は変わりゆく…雲が風に運ばれて流れてく
まるで凍えた姿を笑う…悪魔みたいに

だけどいつかは何もなかった
様なふりして現実をこなしてく

風が隙間を吹き抜けてゆく
ハウスダストが舞い上がり器官を襲う
朝を待たずにベッドを降りる
孤独の闇の中に見ている…倒れていく姿を

やわらかな人に誰も癒されて夢に溺れてる
終わりなき覚醒の悪夢は胸を蝕む
夕闇の中で明かりともる部屋の中を覗けば
愛する人達の温もりが伝わる気がして

だけど本当の事は言えずに
ホームシネマに助けを求める

使者が訪れ告げる言葉は
エンドロールを巻き上げて探しつづける
窓は開かれ誘いの声は
特別なものだけを招いて取り込んで果てる

眠れぬ夜に部屋を抜け出し
静かな街を彷徨ってる
夢の彼方に走り去る人…
仮面の中の歪んだ笑顔を

鏡の中で見破る鍵は
ゲームサイトの番人が握りしめてる
朝日が闇を溶かし始める
無理は望まず生きてゆこう
このサイレントライフを

変わらない日々を誰も気まぐれに生きている
走り去る人は消えて時を静かに紡ぐだけ
 2008年4作目の曲、手術後の生活を象徴するタイトルを拝したこの曲は、けしてサイレントではない。許される範囲でどんなにあがきもがこうとも、所詮はこのサイレントライフから逃れられないという現実を比較的非サイレントに表現してみたわけだが、どうだろう。
 これを作った頃はちょうど桜の季節だったか。職場も八重洲から古巣の上野に戻り、上野公園の花見も敢行した。だが桜と言えば、飯田橋から四谷にかけての中央線沿い、というか神田川沿い?かな。それと飛鳥山公園、少し遅れて新宿御苑が、大体自分たちのお気に入りスポットだ。
 10代、20代の頃とはまた桜に対する感覚が変わってきてますね。誰しもそうなんでしょうか。年を取ることのメリットの一つですね。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月6日日曜日

白い髭はここにある

白い髭はここにある
2008年作
大きな河を渡って列車に飛び乗り
街から街に遠くへ旅路は続く
人も羨むよな思い出を語り出す
白い頬髭なで回して笑ってる

祖国を追われて北の氷の大地を
愛する人と共に彷徨い続けていた
涙無くしては語れない物語
低く嗄れた声で話してくれる

疲れて眠った顔は
やさしさ溢れる
時々怯えたように
寝言を呟いてる

明日はまたどこかへと
旅立つ定めを
背負って生きるすべての
命に祈ろう

少し気になり始めてミラー横目で
覗いてみれば確かに気になることだけど
どこか似ている頬にあったあの印は
あの白い髭はここにある
心臓手術の翌年2008年、その年3作目の新曲として発表!
 人も羨むような想い出を語りだす爺さんが、実は自分だった。まあいろんな解釈が出来そうだ。冒険をする人生に憧れを抱くのは、今まで冒険をしてこなかったからでなく、これから冒険が出来なくなるからかもしれない。
 この頃勤務地である八重洲界隈の探索に精を出していて東京駅から高島屋あたりまでの地理に精通していた。コレド日本橋、丸の内オアゾにも足を伸ばした。
 この頃は江東区森下に住んでいたので、大江戸線で門前仲町、東西線に乗り換えて日本橋で降りるという通勤経路だった。門前仲町で途中下車をしてお茶を飲んだりしたこともあった。実に懐かしい。

空を飛ぶ箒がなくても


空を飛ぶ箒がなくても
2008年作
誘われて何処までもついていく
気まぐれな瞳の裏側に
やりきれぬ哀しみ滲んでる
終わらない昨日が追いかける

付いてきて離れないで
足跡が消えないうちに
太陽が沈まぬように願いを捧げよう

抱きしめた心は冷めすぎて
暖める言葉は固まって
降りしきる雨の中突き進む
夜は今静かに訪れた

付いてきて恐れないで
泥濘が邪魔をしても
残酷な闇の中で願いを捧げよう

素敵なことだけ頭に描いて
弾けるリズムを刻みながら
確かなことだけ分かっているなら
迷うことはないいつだって

紫色の夜明けが今
二人の身体を包み込む
砕けとぶ破片をすり抜けて
新しい時代のベルが鳴る

ここにいて離れないで
輝きが衰えてしまっても
空を飛ぶ帚がなくても
想いを伝えよう
胸に希望が湧いてきたら
大切な明日を抱きしめる
 人間、年を取ってから徐々に手に入れる物と徐々に失っていく物がありますよね。
 若さは、失っていく物ですね。若さっていうのはそれだけで、魅力なんです。それは恋という不思議な世界を作り上げる魔法だったりするんですよ。若さだけじゃありません。ルックスとか財力とか学歴とか、いろんな魔法があるんです。
 まあルックスが駄目で、金もない高卒なんか(私は高卒ですよ)だと若さだけが魔法であって、もしそれがなくなるとただの親父なんです。ただの親父には誰も振り向かないんですよ、っていうのが真実で、それに逆らおうというのがこの歌なんですよね。
 手術が終わり、職場に復帰したのは良いが、誰も振り返ってくれなくなったかなあという寂しい話なんですよ。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

東京百景8「南部線、分倍河原駅」

第8回「南部線、分倍河原駅」

 ここは京王線とJR南部線の乗り換え駅だ。1987年入社した会社は、毎日本社に売上金を持参するという前時代的な会社だった。そのころはまだ新米で京王線の府中駅の支店に配属させられていたが、週に2回は、店長が休みのために本社帰りをした。

 本社は、大田区の蒲田にあったので、分倍河原から南部線、川崎から京浜東北線に乗り換えて帰った。それで住まいは杉並の方南町だ。本社帰りをすると自宅に着くのは10時くらいだった。だから店長クラスだと、社宅や蒲田近辺で暮らす人が多かった。

 店長は金曜休みだったので、木曜は店長と一緒に本社に帰る。そこで引き継ぎをして、翌日は店長代行と本社に帰る。後に店長を目指そうという身には、それも経験なのである。

 さて、この代行の人は大恩人でもある。なかなか行動派だ。分倍河原の乗り換え時間は10分!その間に「食うぞ!」と言って立ち食いでそばをいただくのだ。急いで食べて、急いで階段を下りる。ちょうど電車がやってくる、とまあそんな感じだ。

 ちなみに店長も大恩人である。この方は、武闘派である。京王線府中駅から、府中本町まで歩いて、直接南部線に乗る。もう時効だから良いと思うが、店前に植樹してあった木の枝が看板に被るというので、閉店後暗くなって3人掛かりで、直系5センチ、長さ2メートルほどの枝を切った。物を売るにはそこまでするんだ、ということを学んだ。

 でも、やっぱりそれは、どうだろう?今となっては心が痛む……。

2011年11月4日金曜日

アルキダスト


アルキダスト
2008年作
閉じ込めた過去の記憶
透かして見ている今日の
淋しさを今噛み締め
歩き出す共に心は沈黙の彼方

誰人も忘れている
秘密の言葉の意味を
刹那さに今ほだされ
過ぎ去る昨日に歯止めをかけて思い出す

悲しい涙を流す瞳の向うには
敗者の意識が渦巻く都会が見える
競うだけの生き方を捨ててしまうのなら
明日は一筋の希望が輝いている

背を向けて影を見てる
問いかけた人も消えて
救いなき日々語れる
文書もどこかに隠されて埃を被る

寂れた時計の歯車の一つになれば
ただ回ることだけを考えて明日を待つ
無意味な言葉を吐き出すのはいつも一人
狂った歴史の中に時間を忘れてる

仕組まれた罠を避けて
閉ざされた道を選ぶ
生きてゆく今心は
揺れ動くたびに霧が行く手を阻んでる

閉じ込めた過去の記憶
透かして見ている今日の

淋しさを今噛み締め
歩き出す時は心は沈黙の彼方
歩き出す遠く心は無人の海原
 年が明けて2008年、三賀日は自宅でゆっくり過ごした。正月のテレビもほとんど見なくなり、インターネットにも飽きて、やはり創作活動に精が入ってしまう。
 2007年の手術にまつわる小説、というか随筆「サイボーグの目覚め」を執筆したり、この「アルキダスト」を作成していた。
 タイトルは歌詞の中の「歩き出す共に」「歩き出す時は」「歩き出す遠く」に共通する「歩き出す”と”」をカタカナにして決定。そしてこのブログタイトルは、さらにそれを変形させて「R-Key Dust」と名づけられた。
 ちなみにこのような言葉遊びは、まあ昔からあったもので、自身のことでいえば、「ALTVENRY」は、あると便利だが、さらに大昔は「R&B(enri)」みたいな感じでアルトベンリだった。また他の例で見るとZELDAという女性ロックバンドが、「ハベラス」という曲で、親が子供をいつまではべらしとくんじゃい!という内容の歌を歌っていた。また谷山浩子に「SORAMIMI」という曲があるが、これも名曲である。

標なき道


標なき道
2007年作
幽かなる息を吸い込む音に
気付いた夏は彼方に
静けさの中で破片を拾う
砕けた身体と知らず

浅き夢みし午後の語らい
遙かなる大地を背に

いつか振り返る日のために
共に優しさを交わしている

夢の隙間からこぼれて落ちる
砂の粒数えるよに
意味のない時を費やしながら
徒労に終わりため息

午後の日差しの温もり浴びて
声にならない言葉に

計りしれない明日を見て
共に虚しさを交わしている

遙かな想い時を隔てて
蘇る熱き想い

明日を描くキャンバスに舞う
慣れた筆さばきに想いを馳せ
赤い絵の具を絞り出しながら
闇に明かりを灯し続けてる

いつか未完の作になれども
共に標なき道歩いてる
 大きな手術を終えて、2007年10月16日に何とか職場に復帰したALTVENRYだった。過去を振り返ると一応はサラリーマン稼業、目指すは昇給、出世なのだが、数年前から一線を遠のき、微妙な状態を継続していたが、今回2ヶ月も仕事を離れてみると、さらにその傾向は強くなった。ただ、それも許させるという特権を得たような感じだった。
 とにかく健康が1番、それ以外は2の次だと思った。
 「静けさの中で破片を拾う、砕けた身体と知らず」というフレーズは何となく口から吐かれたが、「サイボーグ」という歌でも書いたように、もう人間ではないのだ、と極端な妄想を浮かべた時に、ターミネーターのように破壊された部品を自分で回収して修理するような光景でも浮かんだのだろうか?
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月3日木曜日

東京百景7「中野区、中野五差路」

第7回「中野区、中野五差路」

 五差路といっても、1本は一方通行の駅までの裏道で、中野通りと大久保通りの交差点というのが、正確なところだろうか。

 1997年わけあって、日野市豊田から中野区中央に引越をしてきました。当時職場は荻窪だったので、通勤はたいへん楽になりました。中野で生活を始めて、南口からこの五差路までは、結構お世話になったところが多く、丸井はもちろん、三菱信託銀行、ケンタッキーフライドチキン(なぜかハーブティーがたくさん置いてあった?)、ラーメン屋、電気屋など……ストリートビューだと電気屋は無くなっている、ラーメン屋「花の華」はまだあるようだ。

 今は無い電気屋、ディスカウントで品揃えも良く、SONYのビデオデッキを購入させていただいた。このビデオデッキは3代目だったが、2代目が貰い物でモノラルだったので、ステレオデッキとしては2代目だった。なぜモノラルを甘んじて使用していたかというと、1993年に結婚した時の貰い物だったからだ。それに結婚すると何となくステレオであるこだわりが無くなったというか……独身時代と比べ趣味嗜好が多少変化したからだろうと思う。
 
 そして、ステレオの復活が語るものは……?

東京百景6「本郷、東大病院」

第6回「本郷、東大病院」

 2007年7月31日から8月4日の検査入院、8月15日から9月10日心臓手術の入院、また2008年12月25日から1月18日まで血管腫除去のための開腹手術の入院の計3回入院している。1回目の循環器内科は12階で見晴らしが最高だ。2回目の心臓外科は最も過酷だった。ここは4階である。3回目は、肝胆膵外科で9階だった。
 入院病棟の作りは各階ほぼ同じなので、食堂は同じ場所にある。リストバンドのバーコードをかざすとその人に必要な食事が用意される。現在も通院を継続しているが、入院だけはもう勘弁願いたい。
 それでも、食堂の窓から見る不忍池は、格別な眺めだった(特に12階)。誰かの見まいついでにここに来るのなら、良いかもしれない。

2011年11月2日水曜日

悠久を超えて


悠久を超えて
2007年作
明日になれば忘れられることも
今日は心に重く被さってる
そうして今は暗い道を一人
通い慣れた坂道の国道
車を避けながら足を運んでいる

信じていれば救われることも
足の先から凍り始めてる
こんなに辛く感じられるくらい
深い想い 抱き続けていた
笑顔を見るためにドアを開けるまでは

深い海の底に眠る昔栄えた文明思いを馳せてる
不思議なくらい落ち着いている
何もなかったように

会いたくなってベルを鳴らした
返事が無くてノブを回した
鍵もかけずに危ないなと声に
しようとして思わず飲み込んだ
二匹の獣が瞳を光らせてる

裏切られても他人を憎むな
傷ついたとて武器をつかむな
愚かさに今気が付かされたけれど
顔を上げて 無意識の底から
暗闇を引き裂き明日へ生きるため

深い海の底に眠る
昔栄えた文明繰り返すほどに
愚かというのか
深い海の底にかつて
栄えし者達がいた
黄昏に時を失いはしない
 逞しき想像力が生み出したフィクションは、高校時代私の一方的な片思いで、横浜の学校に進学した女性のことを思い浮かべて作り上げたものだ。
 さらに太宰治の「人間失格」のワンシーンにも影響されている。
 そして、人間とてつもなく挫折した時には、悠久の昔に思いを馳せると、きっと自分の悩みなんてちっぽけなものになるんじゃないかと思うんですが、実際どうでしょう。
 ちなみに自作の小説「PHANTOM LIFE」に類似事項が見られるので、参考にしていただければと思うが、まあ本人以外に誰が興味を持つというのだろう。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

蒼き風に舞う


蒼き風に舞う
2007年作
見知らぬ街に
タバコを吹かし
少年は通り過ぎて行く
虚ろな夢を追い掛けて
何処にあるのか知りもせずに

春の気配だけを頼りに
街角から流れる歌に
口笛を合わせる

夜の闇を
恐れもせず
部屋の隅でギターを弾いてる

奏でる音に夢を乗せて
明日の道を探している

春の訪れは
もうそこまで
履き古した
上着を捨てて
身軽な気持ちで

朝が訪れ
ラッシュアワーの街に
背を向けて
鮮やかに蒼き風に舞う
軽やかに蒼き風に舞う
しなやかに
 歌詞そのものは、20代の頃に書いた走り書きのようなものだ。
 あの頃の自分に戻れるような、魔法の呪文のようなフレーズに今の自分を照らし合わせてみる。仕事に疲れた老いぼれた自分が浮かび上がるが、そこに長い年月の経過を感じ、涙さえ瞳の端の方ににじませる。
 2007年、これもNEXTMUSICに発表されてから流れてしまった曲の一つである。今回アレンジをさらに重ねてホーンセクションを途中から加えてイメージアップを図りました。
 うちの親父は死ぬまでタバコは止めなかった人だが、私は心臓手術をしたこともあって、道半ばにして挫折してしまった。タバコは吸わないのではなく吸えなくなってしまったのだ。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

2011年11月1日火曜日

東京百景5「中野サンプラザ」

第5回は「中野サンプラザ」

ここには、複数の想い出がある。1981年、入学した専門学校の入学式があった。また1989年頃、住んでいた方南町からバスで1本であることに気が付き、中学以来のプール通いに精を出した。ここの地下2階にプールとかボーリング場とかあるのだ。さらに直後の1990年5月1日(記録があった)、アンジーというロックバンドを見に行っている。アンジーは「天井裏から愛を込めて」「すべての若き糞溜野郎ども」「銀の腕時計」「遠くまで」「幸運(ラッキー)」「ミミズ」等と名曲ぞろいである。ぜひお試しあれ。

時の彷徨い人


時の彷徨い人
2007年作
舞い降りた天使が駈ける
高原の朝靄の中
心奪われ時が止まって
呼吸するのも忘れてしまうほど


背徳に手を染めるほどの
覚悟さえないまま
行きずりに心を奪われてた
つかの間の夢ぬか喜びと
虚しさをポケットに
しまい込んで時が流れた

高層の窓辺に一人
思い出を手繰り寄せてる
誰にも告げず紙切れを残し
昔時に向かう列車に乗り込んだ

過ぎ去ってゆく風景に
生き様を重ねて
心に訪れる不安な夢
ポケットの中仕舞い込んだ
セピアの思い出は
色づき始めて甦る

誰も知るはずのない
寂れた町で彷徨ってる
つたない記憶だけが
心の傷を痛めつけてる

眠りから覚め予感の中で
見慣れた景色目にしている
何処からか現れた天使を
追いかけてどこまでも
息が止まるくらいに
長い歴史を超えるくらい
 2007年8月15日に入院、8月20日手術、9月10日退院、10月16日職場復帰という流れの中で、自宅療養1ヶ月強をリハビリや音楽制作などに費やしていた。
 当時江東区森下で暮らしていたが、隅田川まで歩くコース、小名木川まで歩くコースを少しずつ足を伸ばしてリハビリをしていた。そのうち東京百景にも登場すると思うが、隅田川で夕方少し明るいうちから、夜になる寸前の黄昏時を過ごすのはたいへんロマンチックだった。
 新大橋から清洲橋まで歩いていく途中に松尾芭蕉の像があって、時間によって動くというのだが、それは10年もそこに暮らしていてついぞ見ることがなかった。
 ちなみにこの曲をアップしたサイト「NEXTMUSIC」が突然消滅をしてしまい、それこそ時を彷徨い、やっと落ち着くところに落ち着いたというところか。

CYBORG


Cyborg
2007年作
Now It's Time To Be Out Of Order
The Left Ventricle Of The Heart
How Could I Take Care Of My Body Before
Should I Go Cardiac surgery hurry up

I Have A Valvular Disease Of The Heart
Why Does It Happen To Me
Speed Of Pain Is Faster And Faster
Doctor! Take Me To The Operation Room

Robots Can't Bleed
So I Think I'm A lonely Cyborg Star
Mechanical Valvu Is Long For 100 Years
Maybe I Will go to The Heaven Then

An Airplane Will Fly To His destination
Overcome Temptation Neon Lights
Why Do Disaster Suddenly Be Broken Out
Didn't Have A Doubt In My Life

I Have A Valvular Disease Of The Heart
Why Does It Happen to me
After Surgical Major Operation
Painfull Days Will Be Gone Away

Robots Can't Bleed
So I Think I'm A lonely Cyborg Star
Mechanical Valvu Is Long For 100 Years
Loughing At The Parts In Ashes Of Body

Human Of Mechanical Body
They Get Eternal Life And Seize Power In Animation
I Don't Hope Eternal Life
I Don't Need The Power Anymore

Robots Can't Bleed
So I Think I'm A lonely Cyborg Star
Mechanical Valvu Is Long For 100 Years
Awaken From Anesthesia

Robots Can't Bleed
So I Think I'm A lonely Cyborg Star
Sound Of The Valvu Has Echoed In My Crazy Head
It's Birth Of The Cyborg Of New Type
 私の心臓手術が行われた「2007年8月20日」をXとしまして、それ以降に発表された楽曲の歌詞と解説、出来れば音楽投稿サイトなどとりんくさせながら、紹介していこうという企画「SONGS X-」です。投稿タイトルは楽曲名で行こうと思います。

 以下は手術後のブログから〜

 入院する8月15日の数週間前に「サイボーグ」(NEXT MUSIC参照)という曲を書きまして、プロモーションビデオ(そんなたいそうなものでは、ないのですが)を作成し、な、なんと大胆にもYOUTUBEにアップしてしまいました。正直言うと生きて戻れないことも考え、なにか足跡を残してやろうとの思いでした。  そして9月10日に退院してきて、見ると100人もの人(実際それより少ないだろうけど)がその動画を見てくれてまして、感謝を込めて英語版(単語を並び連ねただけで、文法滅茶苦茶)の動画を作成、一応入院奮闘記の様相も見えます。
 これも、この前の手術前バージョンも「Slip!Trip!Strip!」でご覧いただけます。他にもそこそこ楽しめるものもあるかもしれません。一度ご覧あれ!
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。