2013年10月26日土曜日

Mr.vation ライブ告知、「明日だった!」

高岡のおとぎの森公園で、二人ユニットのMr.vationとして出場します。
出 演 順 出演予定者 演奏時間 予定演奏時刻
UpRice 20分 11:30
高坂市晴 25分 11:55
Rare Names 30分 12:30
「ろくたん」 20分 13:05
よし坊 30分 13:30
Mr.vation 35分 14:05
伏木太郎 20分 14:40

2013年10月24日木曜日

ライブウッド、一人反省会……。

一緒に出演した同士が、録画してアップしてくれたのでそれを見ながら一人愚痴ってみようという試みである。

まず1曲目であるが「TOKIO」!
今回は、自身の紹介も兼ねて高校を出て東京に向かい、50歳を過ぎて富山に戻るまでの流れを順に追いながら、今まで人前で歌われなかったであろう楽曲を紹介することが目的でもあった。

高校を卒業した年であり、あのジョン・レノンが凶弾に倒れた年の曲ということで、TOKIOになりました。もちろん沢田研二も好きでした。それに自身がジュニーと名乗っているのが、なんだかんだ言ってジュリーに引っ掛けている事も紹介出来るので、これだと思ったんでしょうね。

歌に入る前にその辺の説明をしてるんだけど、回りくどいですね。まあALTVENRYの名前の由来や、二人で活動してるMr.vationとかの関係なんかも説明してます。

歌に関していうと、5曲歌った中でこれが一番声も出てて、大きなミスも無く意外と良かったなあと思いました。

この1980年ちょうど僕は3月高校を卒業して予備校に通いました。とにかく東京に行きたかったんですね。ちなみに「TOKIO」って東京のことだって分ると思うんですが……。今「TOKIO」っていうと、長瀬君とこのグループですけどね。当時沢田研二さん、それはもう全盛でした。愛称でジュリーって呼ばれてますね。あれは、歌のうまいミュージカルスター、ジュリーアンドリュースにあやかってるんですね。で、私の場合Junnyっていうんですけど、淳一なんであやかった訳ではないんです。でもJunny Andlooseなんて名前でFaceBookとかやってるのは、やっぱり狙ってるんですかね」

以上はここで言おうと思っていたMCの前書きです。結構余計な事をいっぱい喋ってますね。身内からは喋り過ぎというクレームももらいました(笑)


2曲目は「ゴミ」!
20代半ばで書いておいて、人前で演奏するのが初めて!エポックメイキング!多分もうどこでも演奏しないでしょう。貴重だと思いますよォ。コードを1カ所間違えてますが、まあご愛嬌で。

3曲目は「夏の邂逅」!
この曲に入る前もうだうだ喋ってますね。まあ、20代で作った「ゴミ」から15年過ぎ、40歳頃書いたんで、自分の中で時間の開きを伝えたかったのかなあ、なんて……。
これは歌詞を2カ所誤摩化してしまってます。これは音楽サイトに投稿して聴けるのでリンクしておきます。MusicTrack「夏の邂逅」

4曲目は「Sweet Season」!
これに入る前もインターネットのメリット、デメリットなんかをしつこく喋ってますね。なんだか稚拙で恥ずかしいですね。これも音楽サイトに投稿して聴けるのでリンクしておきます。MusicTrack「Sweet Season」

最後の曲はカバー曲。
山下達郎の「さよなら夏の日」……。単純にカラオケなどでも歌う好きな曲を弾き語りしてみようという試みでした。

この曲の前のMCは、実は考えてなくて、最後に何を話そうかと思った時にふと、帰郷してこの1年間のことが頭をよぎってしまいました。
学生で富山を暮らす事と、社会人としてこの富山を生きる事はやはり別物……。自分がただ子供だっただけなのか……、はたまた富山が昔と変わってしまったのか……。

さて演奏の方は、まあまあ大きなミスも無く無事に終わりましたが、歌を聴いてると……うーん、うまくないなあ……。

一番の反省はMCかも……長年のサービス業が染み付いて、よく言えば腰の低い……つまりパンチのない、つまらない話のような気がしてなりません。

これからは、Mr.vationで相方が面白いトークを展開するので、こっちもかなり鍛えられるかもしれませんなあ(^^)/





2013年10月15日火曜日

10月20日は今年最後のライブウッド!



出  演  順

 


11:0011:30 なき
(久しぶり?のウッド!TOP!心のこもった歌で、お・も・て・な・し)

11:3512:05 伏木太郎
(ライブウッド!初登場!独特の雰囲気で、観客を魅了!)

12:1012:40 neco
(フォーク・J-POP・オリジナル。得意は中島みゆき。トークネタにも注目!)

12:4513:15 しょうきち
(満を持しての登場!インストに弾き語り。ウッドプラザは幸せに包まれます)

13:2013:50 よし坊
(元気印アコースティック・ロックンローラー。生き方、そのものがロックです!)

13:5514:25 ルシ
(涼しくなった晩秋には、かぐや姫の暖かい歌を!)

14:3015:00 Masa&Airi
(魅力溢れるAiriの女性ボーカルに、ギター・歌をこなすMasaが絡みます)

15:0515:35 ALTVENRY
(アルトベンリと読みます。どこかロックな感じがするやさしい歌い方です)

15:40~16:10 JeJe+宙(そら)
(久々の登場!今年最後のステージは、任せます!)

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - fin

ざっと、まとめます。
30年、富山を離れ、50歳を過ぎて帰郷して、就職……。
東京でやってたメガネ販売を活かすため、地元の眼鏡店に……。
いろいろあって(過去分参照)、退職することに!

退職予定日の2月20日の直前、「社長誕生パーティー」が14日に開かれた。
最初、冗談だろと思っていたら、会社をあげてのイベントだった。つまり全員参加で、なおかつ社員の家族も招待されている。さらに4月から入社する予定の、つまり新卒内定者が招待されている。

富山第一ホテルの広間で行われるのだ!
兵達は、奥さんを含め、子供達も参加させ、着飾って、祭りのように騒ぐ。
役職者の奥方の挨拶に留まらず、いたいけな子供にスピーチさせる。
「社長、お誕生日おめでとうございます。今日はこのような集まりにお招きいただきありがとうございます」
などと、可愛い声に言わせるのだ。

パーティー半ば、そんな子供達十数人に囲まれてにんまりする社長の姿を見ながら、つい某国の指導者の姿をだぶらせてしまう。

テーブルは役職事に分れている。
私のテーブルは、やはり若い連中が集まっていた。そう新年会で同じ部屋に寝泊まりした連中だった。

6日後に辞めるということをどうしても言えなかった。
「じゃあ、また今度!」
そう言って分れたが、多分今度はないのだった。
確かに別れがたい人たちもいる。
彼らは、頑張って生き残っていくだろうか?
私と同じように去っていくだろうか?

ただ彼らは20代!まだ若い!
こちらは50代。若いとは言えない。でもまだ生きていかなければならないのである。

2013年10月14日月曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⒀

最初の趣旨は「なぜ仕事が続かないか」を考える事だったのだが……。

富山復帰後、初の就職とそれにまつわる就職顛末記という内容になった。
なので、その最初の就職先であるメガネ会社で参加した大きなイヴェントを二つ紹介して、このコーナーは幕を閉じようと思う。

まずは、2013年1月10日「新年会」

その日は、1月1日に休み、2日から9日まで8日間働いた後の久しぶりの休日だった。
夕方所属店である中教院前店に顔を出す。実はこの時に店長と話し合い、2月中に退社する事を表明したのだった。

この新年会は、20数店舗の支店の全員参加となる。100名強が集まる場所は、呉羽山グランドホテル、アルコールが入る事もあって、全員宿泊となる。強制参加ではないといいつつ、集まざるを得ない状況だと思う。もうこうなると残業だか、何だか分からなくなる。会社の催し物なら、残業代が出ても……とも思うが、飲食代と宿泊代でそれは帳消しになるのだろう。

大広間での宴会、部屋を変えての2次会、楽しい事は楽しい。度を超えて暴れ回る輩もいない。

宿泊は、和室で5人が一部屋で布団をひいて寝る形だ。部屋割りは、入社年度ごとらしい。私以外の4人は今年入社した連中で、3人は新卒で4月に入った者、1人は中途でその後入った者だった。皆20代だったし、まだ会社に染まってないからか、後輩でありながら、年上の私に結構気を使ってくれる。私にとってみれば息子も同様の年代の子たちと同僚なんだが、何だか本当に同僚のような、まるで修学旅行にでも参加しているような錯覚にとらわれた。

新卒は毎年30人くらい入るが、淘汰されて数人しか残らないようだった。彼らの同輩も数人は辞めてしまって、自分自身さえ今後に不安を抱えているのだった。彼らの疑問に一応私の考えは述べる。おかしな事はおかしいと……。それでも彼らの前で、退職が決まっているという話は出来なかった。カルト教団に飲み込まれて行きていくか、あるいは誰かが体質を変えた新しい組織に生まれ変わらせてくれるか、いずれにしても逃げ出そうとしている老兵には、口を開く資格はないような気がした。

さあ、いよいよこのコーナーも最後だ。
2013年2月14日、「社長誕生パーティー」……うーん、それは次回で!

2013年10月11日金曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑿

こんなに続けるつもりはなかったタイトルだったが……結局就職顛末記として、長々と書かれたということだ。

試用期間満了で辞めておけば良かったと思った点が2つ!

1、このカルト的会社の習わしで、全社員相手に年賀状を書かねばならない。辞めておけば必要なかっただろう。

2、年末年始の休日が元日だけだった。辞めておけば30年ぶりに帰郷した富山の親戚連中とゆっくり正月を過ごせただろう。

辞めようと思って提出した意見書は、私の店舗異動と正社員登用という形で昇華されたのだと思う。中教院前といえば、通勤距離は半分以下だし、除雪作業の範囲も少なく、比較的環境は良くなるはずだった。

しかし、それだけで解決する問題でなかったのは、この会社の特徴だと思う。年賀状作成は嫌いではないから、まあ時間は取られるが苦ではない。正月が慌ただしいのが、最も応えた。

12月21日から31日までの休日は、たしか1日。元日は休みだが2日からは仕事で、次の休みは10日の予定だった。1月早々8日出勤だ。さらに言えば10日は泊まりがけの新年会で、全員参加となっている。

2013年に入ってからの私は、本当に魂が抜けていたかもしれない。多分そんな私を見かねて、店長が聴いてきた。
「やる気、あるの?」

私は、やる気がないことはないが、体力的に付いていくので精一杯だと答えた。彼は同じ中学の後輩だったが、そのせいかどうかは知らないが、正直に私にこれ以上ここに居ても苦しむだけだろうという話をしてくれた。

私も彼には話がしやすかったので、正直に退職の旨を伝えた。

すぐにも辞めて違う仕事を……と思ったが、2月20日が退職日になった。
それまでは頑張って勤め上げようと思った。友人に相談してもそうすべきだという。

そんな私をあざ笑うように退社日までのローテーションが出され、足下を見るかのように週休1日だった。

2013年10月10日木曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑾

さあ、予告通り「除雪作業事件」(事件じゃない)で!

10月下旬から働き始め、11月末には初任給、12月21日には正社員に昇格。
一見順風満帆のようだが、私の心の中ではこのまま正社員になっていいものか……そんな不安が渦を巻いていた。

なんとなく店舗の一員としての存在意義も感じつつあったが、実はボディブローのようにじわじわ効き始めていたことが一つ……それは時間に関するルーズさだった。

休憩時間の有無、残業時間の管理、ミーティング、会議……どれもが不安要因だった。

一日の労働時間は9時から18時で1時間休憩だから、8時間……ならいいが。

朝は、開店準備があるので8時には出勤する。昼食は30分で切り上げ、休憩は取れない事がほとんど……18時に帰れるかと思えば、誰も「お疲れさま」とは言わない。また来客中の場合は帰れない雰囲気が漂う。自分が担当でなくてもだ。

日曜日は、朝ミーティングがあるので7時半、月に一度の社長参加朝礼は朝7時に出勤……しなければならない。残業代は付かない。ちなみにその日休日の者も社長朝礼だけ参加して帰ってゆく。残業代は付かない。

さああ、いよいよ雪が降る!

それも社長朝礼の前日から激しく降る。
一面雪景色の中、運転もたいへんだ。ちなみに車通勤だ!路面が凍っている!
出勤も一苦労だ。
社長朝礼に間に合うように少し早めの6時半に出る。通常は15分程度だが……。

車に乗り込む直前に夜中にメールが届いていた。
店長からだった。
「明朝は、かなりの降雪が予想されるので6時から除雪作業をして、社長が来る7時には入り口から駐車場までをきれいにしておきます」

な、な、なんだって!!

確かに私は7時前に着いたが、すでに他のメンバーは作業着を着込んで除雪をしていた。その姿は神々しく見えた。無償の行為だ!本当に良い奴らだ!

しかし……それは違う、それは本当に恐るべし、カルト集団だ!

私は、ワーファリンという薬を飲んでいるせいで出血しやすい。重労働した時に内出血の痣が出来る。引越作業でも出来たし、この除雪作業でも出来た。

私は、辞めるべきだと思った。付いていけないと思った。だからその痣を利用する事にした。私は、会社に意見書を出した。今後正社員としてやっていくにしても除雪作業は出来ません。休憩時間はきちんと下さい。危険を伴う高所での清掃は免除して下さい。そんな内容だった。これで私は試用期間満了で退職出来ると思った。

ところが……そうは行かなかった。引き止めに合い、うかつにも喜んでしまったからだった!



2013年10月9日水曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑽

さあ前置きは短めで……

富山に帰郷して就職、初任給が出たのは11月30日。
20日締め、月末払いだから10月21日初日には意味があった事が分った。

銀行振込だ。
そう言えばそのために地元の銀行に口座を作った。

給与明細と一緒にもらった試用期間終了の案内……それは12月20日だった。つまり試用期間は2か月だったことがわかるが、入社時には1ヶ月の人もいれば3ヶ月の人もいる、という曖昧な説明だった。

試用期間には何か作為が感じられたが、気のせいかもしれない。

お茶だし、送迎を極め、次のステップに移行するべく加工の練習、また時計の電池交換などを始めていた。電池交換はきっと器用な人なら苦なく出来るかもしれない。私もけして不器用ではないと思うが、前職では経験なかった分野だし、力の加減も分らず、自分の手を傷つけることはもちろん、時計そのものを壊してしまうのではないか、不安だった。それでも見よう見まねでこなしていたが、もっと腕を磨く時間が欲しかったし、道具などがもっと整備されていて欲しかった。

道具に関しては、眼鏡用の調整工具やネジなどの備品が非常にお粗末に思われた。それは前職場との比較になってしまうが、以前は眼鏡用のネジ、1.4x3.0とか1.4x3.5といった種類のものがきちんと整理されていたし、未使用の新品が多数用意されていた。

ネジ交換の場合、無造作にネジが入ってる容器から、必要なネジを探すところから始まるのだった。

良い意味では古いネジを大事に取っておいて再利用するのだが、いくらネジ交換が無料サービスでも、新しいネジに変わるものだと多くの人は思う筈である。

備品の再利用は、ものによってはエコだったり経費削減だったりするが、そこをけちってどうするの!という所は、ある程度経費をかける必要があるのではないかと思う。

凄いと思ったのは、段ボール紙などを束ねる紐は、一度使って終わりではなくきちんと取っておくし、切れっぱしまで取っておいて結んで使用するのだった。あとは銀行などの紙袋、コンビニのビニール袋も再利用する。

使用しない場所の照明のオンオフはもちろんだが、便座の電源が入っていなかった。コンセントが抜いてあるのである。それは12月に入っても、そのままだったので、さすがにやり過ぎだと思った。というか忘れているだけだと思った。

事実は、会社全体の意向で冬でも便座に電源は入れないのだ。
私の唯一の提案で通ったのは、冬でも便座のコンセントが抜いてある理由を利用者に分るためのPOPが必要だというものだった。

それに書いてあるが、「節電のため」だそうだ。

原発事故を逆手に取って、自社の経費削減に利用しているだけだと思うのは私だけだろうか?

おじいちゃん、おばあちゃんが便座に座って冷たいと感じるのは、それは会社そのものが冷たい会社だからではないだろうか?

試用期間中に辞めるのがいいのではないか?迷っていた。
それを決定づける「除雪作業事件」(事件じゃないが……)は次回必ず!

2013年10月8日火曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑼

30年ぶりに富山に帰郷。1年4ヶ月ぶりに就職。

(もう何回も繰り返し、少々しつこいか)

さて、入社して1ヶ月過ぎた頃、気心も知れてきて、何となく自分自身の居場所を見つけたような気がしていた。

2回目の全体集会が近づいてきていたが、この時はメガネブローチはもちろん、スーツの胸ポケットを飾るハンカチーフも自前を用意していたし(ハンカチーフだけはなぜか3枚支給された。これは退職時に返却をさせられるので、紛失してはいけない←退職時の返却物に書いてあった!恐るべし)、とにかく会社の1員という自覚も生まれていた。

11月30日、月末は小売店に取っては、前年比や売上目標との決戦を締めくくる最後の日。別に恩を売るつもりはないが、売上に協力すべくメガネを購入することにした。

これはすべて前職場との比較になるのだが、総じて値段が高い。社員割引だって高い。また前職の場合、業務用メガネという特別待遇で、数年に1度だが無料で作れた(今はわからないが……入社した頃は1年1回だった)。

社員とはいえ、購入すれば顧客だというのは、前職では常識だったと思う。
具体的に言うと、お金を出して買ったメガネは、当然出来上がったものが手元に届くと考える。

月が変わって12月、昨日のメガネを購入したときの店長の笑顔は消えている。
要は、自分が買ったメガネだから、工程管理をしなければいけないのだ。
レンズは自分でコンピューターオンラインで発注、注文票とフレームをレンズ待ちの棚に仕舞っておかなければならないのだった。

数日後、レンズが入荷したことが分ったが誰も何も言わないのだ。
これも要は、自分で加工しろというのだ。
前職では分業体勢だったので、加工など出来ないし、「して下さい」と言える雰囲気ではない。たとえ思ってなくても、「加工の特訓しますからねえ。1ヶ月後にはおニューのメガネをかけますね!」と強がってみせるが、なんだか悔しい。

ちょうどこの頃、私の試用期間が12月20日で終了し、12月21日からは正社員だという通知をいただいた。

嬉しさ半分、恐さ半分!

まだ試用でいいんじゃないか、この会社に引き込まれても良い事がなさそうだ。

悶々とした日々を過ごすうちに冬は急激に速度を増し、それこそ30年ぶりに富山の雪を体験する。

私のその後を決定づけた除雪作業が始まる! 次回!

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑻

さあ加速して行こう!

退職までの流れを見ていこう。

30年ぶりに富山に戻り、1年4ヶ月ぶりに就職した前職と同じメガネの仕事。
会社の方針で接客は、役職の高い店長から……。

新人に出来る事をしていくしかない。

お茶汲みの他には、「送迎」
これは、さすがに東京では考えられない事だ。自宅から店舗まで送り迎えをするのだ。ただし身体の不自由な方や老人が主体で、私はこれも素晴らしいサービスだと思った。

ただ私が友人にそれを語ると、私に賛同するより先に
「事故ったら、どうするの?」
と聴かれた。

確かに人間がする事、事故が起こらないとは限らない。
多分会社自体が保険か何か、入っているだろうなあ……これは確認出来なかった。

それは比較的、私が事故を起こすタイプではなかったからだろうか。
多分上手な方だと思う。タクシードライバーだった父親の遺伝子を持つからなのか。

それに店舗にいて、他のメンバーや顧客の顔色を伺っているよりは外にいる方が気が紛れた。だから「送迎」大好きだった。

偶然にも級友の父親を乗せた事もあった。話の合うおばちゃんが、そのまま私からメガネを買ってくれたこともあった。さすがにその時は、検査、販売をさせてもらったし、私の売上点数に加算された。タクシーでなく店の人間だから、相手も気軽に話をしてくる。自然と意気投合するのも頷ける。

ただし1回肝を冷やした事件があった。余裕があれば、顧客住所を確認し、自分の頭で走行プランを考えるのだが、たいがいは顧客に道を聞きながら送り届ける。
「そこを左ですね」とか「その先公園の前ですね」といった感じだ。

ところがあるおばあちゃん、曲がるべき所で曲がらず、数百メートル過ぎた辺りで突然声を張り上げる。
「ここ、どこ?」
平然を装って、電柱に書いてある住所を伝えても
「さ、わからんちゃ!あんた、私をどこに連れて行く気なんね?」
とまるで、私を犯罪者扱いする。一度店に電話して住所を確認し、地図を見て送り届けるが、この時は恐ろしいと思った。

いくつかトラップはあったが、なんとかやり過ごしていた。
ちなみに車を擦ったり、電柱にぶつけたりするものはいた。
もちろん彼らは、全体集会で、100数人の全社員の前で謝罪である。

恐るべし、カルト集団。
ただし11月末まではその全貌は見えていなかった。

2013年10月7日月曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑺

昨年10月下旬から始めた仕事は、前職と同じ眼鏡店。

同じと言ったが、違う部分も多く……新人だから謙虚さもいるし……。

正直、メガネに関してはそれほど変わらないのだが、やり方が違うともうそれは別の仕事……慣れるまでが実にたいへんだし……実は会社の方針で、役職の高いものから接客に入るということで、メガネの仕事はほとんどまわってこないのだ。

新人と言えば、お茶汲み!

緑茶に、昆布茶に、コーヒー、ココアと品数も豊富。実は一つ一つにいれる際にマニュアルがある。出せば良いというものではないのだ。

正直にこれは、これで凄いと思った。カップに注ぐ量とか、緑茶の色とか、昆布茶にいれるあられの数とか、事細かに決まっている。

10月21日から12月20日までは、下赤江という場所にいて、ここはやたらコーヒーを出す店だった。マニュアルは基本オーダーを伺って出すのだが、黙ってコーヒーを持っていくのが多かった。そこで要らないと言われたり、他のが良いと言われて、他のを出したりしていた。

家族連れが多く、子供が2人も3人も来ようものなら、2杯、3杯とココアを入れる。なかなか溶けきらないからやっかいだったりする。

あと常連さんだと、この方はコーヒーは駄目とか、必ず昆布茶とか決まっていたりする。

この飲み物に関しては無料提供なので安心していただいて欲しいと思う。
もう一つ無料サービスで車の送迎というのがあるが、これは次回に……。

「ドリンクサービス」のまとめであるが、すべて本部の方で用意される。そしてどこの店が何をどれだけ消費しているかを調べている。出る事に関しては問題なさそうだが、コーヒーだけが極端に減るとか、昆布茶がやたら出ないということで、サービスに関する問題提起がされる。要は万遍なさと適度な消費量が大事なのだ。

問題がある店舗は、全体集会で追求される。ちなみに店舗の備品をこわしてしまったり、何か目だったミスをしたものは、全社員の前で謝罪させられる。

恐るべし、カルト集団!

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑹

……30年ぶりに富山に帰ってきて、50代で再就職。

ちょうど1年前の10月から地元の眼鏡店で奮闘の日々。

とにかく、1年4ヶ月に及ぶ失業期間からの脱却、面接の成功、再就職の準備などで舞い上がっており、少々の不安も目に入らず、自分に出来る事をこなしていこうと、今思えばいじらしいほどに、頑張っていた。

こうやって前置きが長いのは、それを整理するという目的もあるし、自分自身冷静に感情的にならないようにするためではある。

正確には、初日が10月21日であった。そこでその店のメンバーとは初めて会う。店長は30歳前後で独身、代理は女性で20代、もう一人男性社員はやはり20代、パートさんが女性で子持ちのアラフォーだが、結局一番年上であった。

新人よろしく、挨拶を決める。最初の印象では、いや今でも思うが、良いメンバーだった。人間関係で行けば、私があと20歳若ければ、それはきっと楽しい職場だったかもしれない。

そう、問題があるのは会社の体質だからだ……。

このシリーズの前の方で書いたが、入社前に用意するもので「3色ボールペン」がある。自腹である。高いものでもないし、最初くらい用意してくれてもいいのではないか。前職の東京の眼鏡店では「ネームペン」を無料提供してくれた。まあそれと比較して良いか分らないが、一応仕事で使うものだ。後で分ったが、色分けするのは在庫チェックの際、色分けして在庫帳に記入するためだ。

自腹でもう一つ驚いたのは「メガネブローチ」!
「メガネブローチ」「メガネチェーン」の使用目的は同じで、メガネを常時使用しない人や一時的に外したい時に持ち歩くための道具である。

ブローチは、本体と一緒に金属の輪をを付けてしようするが、この輪を付けないでブローチ単体を装飾品としても使用出来る。

全員着用だ!

例えば、最初に何か支給され、自分の趣味で後から購入という方法でいいじゃないか!
「メガネブローチ」は1000円くらいのものからある。買えなくはないが……。

これを拒否するのは、店の中で居づらい以上に会社に居にくい。というのは店ではある程度融通がきく、というかそれほどうるさくない。

だから、それをいいことに10日くらいは、購入せず着用しなかった。

この会社、会議やミーティングがやたら多い。
特に月に一度、一つの店に全社員が集合する全体集会がある。
20数店舗の支店の、100人超の人数を収容する比較的大きな店舗の2階で行われるが、社長が車で現れるやいなや、集まった100人がいったん駐車場まで降りてゆき、社長の車に列が出来、ドアが開いて出てくるのを今か今かと待ち構える。

社長が降り、専務(奥さん)が降り、一人一人握手を交わしてゆく。
事前に何店舗が前年売上達成したかを聴いておき、握手の際に使う。
「○○店達成おめでとうございます」
そう、そう言って社長や専務に握手を求める。

私がブローチをしていないことに気が付いたのは専務だった。
「あんたあ、ブローチは!」
全員の前でつるし上げを食う。本人もそうだし、所属店長にもとばっちりが及ぶ。

入社間もない事を理由にその場は切り抜ける。早速翌日購入せざるを得なかった。ちなみに12月になるとクリスマスバージョンが発売され、それも購入せざるを得なかった。

以上が「メガネブローチ事件」である。
それにしても、恐ろし、カルト教団!!

2013年10月4日金曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑸

30年ぶりに富山に戻ってきて就活し、何とか地元の眼鏡店に決まった。

それはちょうど昨年の10月の事……。

20数年勤めた東京の眼鏡店を辞めてから、実に1年4ヶ月ぶり……。

新しい仕事に従事することになり改めて、東京の眼鏡店が実はものすごく良い会社であった、という事に気づいた。それは働く社員にとってもそうだし……顧客にしてもそうじゃないかと思う。以下は東京の眼鏡店の利点というか、特徴である。

1、メガネ専門店であること……つまり、それ以外に時計だとか、宝石だとか扱ってない。

2、分業体勢である事……店舗で販売、接客をするものと、本社、工場で発注、加工するものとが別れている事。

3、社訓「売上を競うよりサービスを競え」「お客様に損をさせるな」を言葉通り実行出来た。

4、東京という、競合地域でライバル会社を意識していた。

5、新人教育が、しっかりされていて、無茶ぶりすることなく、安心して仕事ができた。


取りあえず以上の5点を、比較しながら見ていくと……

1、メガネ以外に、補聴器、時計、ステッキ、それに店舗にあるほとんどのものが売り物だった。販売カウンターの上にある卓上ミラー、販売時にカウンターに敷く和紙、これも売っている。無料サービスのコーヒー、昆布茶、お茶も販売用として余分にストックされている。

2、レンズの加工を店舗で行う。加工機がカウンター内にあり、時に騒音、異臭をまき散らし、レンズを削った粉が、側にあるコンピューター等精密機械に影響しないか、何より人体に影響ないのか心配である。

3、この社訓は、人によって解釈が異なったり、建前だと突っぱねたりする社員も大勢居たような気がする。これは最近どこのサービス業に行っても、自社の売り上げばかりを気にして、顧客に無理を押し付ける傾向が見られて嘆かわしく思う。例えばAという商品とBという商品があったとする。性能的な差はないものとする。Aの方がもし値段が高いなら、Bを勧めるのが、社訓に乗っ取ったやり方だ。ところが、Bの存在さえ否定してAを販売する姑息さはいったいなんだろう。Bを説明しつつ、何とかAの魅力を説いて販売するならまだしも……扱っていて、説明しないとは……?(ただし、これは自身にも経験があるので偉そうな事は言えない。ただし理想は、必ずBは説明することだ)

4、東京という競合社会は、へまをして顧客を逃すと他所へ行ってしまうので、顧客満足という意識をしっかり持っていた。比較しやすい環境の中で、価格であるとか、接客態度であるとか、自然に磨かれていく部分もあった。しかしながら地元で一人勝ちのような会社であったが、顧客へのサービスという点で優れている所もあった。ただしそれはあくまでも人によるものなので、店舗にばらつきがあるのは仕方がないかもしれない。

5、今回私は、50代ながら新人という事で、頭を下げて教えを請うという立場に徹するつもりだった。最初の1ヶ月は気合いが入っていたから問題はなかったが、段々やり方に疑問を覚えるようになった。会社の体質に問題を感じ始めていた。

最初は目新しい部分が輝いて見えていたのだけれど、ブラックな体質が見えてくるととたんに醜く感じられるようになった。飲み込まれないうちに辞めたいと思い始めたのは、12月に入った頃だった。

2013年10月3日木曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑷

昨年2012年夏に富山に戻ってきて……

ハローワークでやっと見つけて就職出来た眼鏡店に、10月20日から出勤する事になった。ちょうど1年前だ。

失業期間は、1年4ヶ月と数日。
面接に受かり、就職が決まった喜びで舞い上がっていた。

新しいスーツを新調したり、勤めるべき店舗の下見をしたり……出勤するまでに買いそろえるものを準備していた。

本当はこの時点で気づかなければいけなかったのだが……。

通常仕事で必要なものは、企業が準備して与えるものだと思う。
もちろん私物として使用することは出来ないが……。

3色ボールペン!

まあ高いものではないし……でも今考えると会社が用意すべきでは……と思う。

とにかくそんな細かい事は気にはならなかった。

ちなみにそれまでの私の能力を確認しておく。
そう、関東に30年、その中でも眼鏡店24年、そこで身につけた事。

1、接客。
コミュニケーション能力だ。相手の言う事を理解し、それに応じた言動をすることだ。

2、視力測定……医者が検眼と呼ぶものだ。接客力を活かしながら、専門知識で応える事だ。

3、販売……メガネのレンズ、フレームの知識が要求される。

4、調整……メガネのかかり具合を直す。

5、店長、副店長としての管理職経験。

主にこの5点が上がるわけだが、これはその東京の眼鏡店が分業体勢を取っていたからで、本来ならメガネの加工なども入らなければならない。

というわけで、新しい職場において上記の5点は活かせるかもしれないが、それ以外はまったく分らず、結局それらを教わっていくために苦労する事になるのだった。



2013年10月1日火曜日

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑶

前置きが長くなったが……

2012年夏、約30年ぶりに富山県人に戻った。
住むべき家も見つかり引越も済んだ。
毎月通院すべき病院にも顔を出した。

ハローワーク常総で発行された書類をハローワーク富山に行って、住所変更を済ませる。

富山のハローワークも今回初めて訪れた。
1年3ヶ月の長い失業生活にも別れを告げるときが来たのだ。

その失業生活で手に入れたものは電気工事士2種だったが、実際の経験がなければ使い道はなかった。それに本来の電気工事は、20代の頃に経験しているがキツい上に、多分今それをやっても身体を壊すだけだろう。

結局、私にとって武器になるのは20数年間勤めていた眼鏡店での接客技術だけであることを思い知る。

ハローワークは、身障者コーナーが別枠で設けてあり、私の担当者は初老の紳士だった。
彼は、とにかく眼鏡店押しだった。

正直言うと私もその気にさせられた。

数店候補はあったが、その中から1社選んでもらった。
実際に店に足を運んでみる事は無く、ホームページなどで雰囲気を感じ取った。

しかし、実際勤めてみると分らない事はたくさんあったが……それは後ほど。
まず面接という話になった時、それこそ20数年ぶりに履歴書を書いたり、面接テクニックの本を読んだり、理髪店で髪をそろえたり……結婚と同じで、結婚がゴールなのではない、結婚した後の結婚生活こそがたいへんなのだが……面接必勝ということに舞い上がっていた。

とにかく気に入ってもらわなければならない。
面接は、総曲輪本店で、担当は本店店長兼任の人事部長だった。
彼は年下とは思えないほどのしっかりした人物で、考え方もしっかりしていた。多分将来を背負ってたつ人ではないだろうか。

さて、何とか面接を勝利して……富山での就職、ちょろいものだと思ったのかもしれない。後の事などあまり気にしてはいなかったし、勢いで何でも出来そうな雰囲気だった。

初出勤は10月20日という事に決まった。そう1年前だ。
所属店舗は、下赤江店だった。

故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑵

ハローワーク、昔は職安と言っていた。
20代の頃、1度飯田橋の職安に行ったが、行っただけで仕事は紹介してもらってない。
ずっと求人雑誌や飛び込みでバイトとかしていた。

20数年間勤めた眼鏡店にしても、求人雑誌で応募したのだ。
だから2011年、50歳にして退職し、ハローワークで失業保険の手続きをすることは初めての体験だった。

そこはハローワーク常総。
住んでいた守谷からだと国道249を北上して10分くらいの所、最寄りの駅だと、関東鉄道常総線の水海道だ。

まあ田舎のハローワークだ。

その年退職後3ヶ月は富山に行っていて、戻ってきてからの手続きだった。
富山に戻る決断の付かない状態だったから、関東圏で働くことも視野に入れなくてはならないと考えた。

失業手当は思いのほかもらえるようで、そのためになにがしかの就活をしなければならなかった。その時職業訓練のチラシが目に留まった。ほとんど無料で受講でき、そこに通う事が就活として認められるのだ。一石二鳥とはこのことかと……いやプラス半年間は茨城に居る名目も出来る。家内は一刻も早くホットスポット脱出を願っていたが、私はまだこの守谷に、そして関東圏に未練があったのだと思う。

2012年1月から、ポリテクセンター茨城という、ハローワークに少し近い場所に通う事になった。「電気通信施工学科」は、学生時代に興味があったないようだ。

この時の感想はまた別の所で触れようと思うが、半年間まるで学生のような明るい雰囲気の中で楽しく勉強させていただいた。年下の級友達と仲良く情報交換していた。それが職場だったら天国のような、そんな場所だった。

6月修業してそこを出る。待つのは富山だった。


故郷富山に戻って1年……なぜ仕事が続かないか - ⑴

2012年夏にプロジェクトは動いた。

富山に帰る!

7月、1次帰郷で住むべき物件を探す。条件は実家の近く、最低2LDK、あるいは3DKで、価格500〜600万円。

あった!

実は前々から探すには探していたのになかったのだが……。2階建ての築50年弱だが、そこそこきれいで550万。売買契約を8月中旬に決定。不動産屋のアドバイスで購入物件の住所に転入届けを済ますと良いというので、準備をするためいったん茨城県守谷のマンションに戻った。もう一つ戻る目的があった……それは、電気工事2種の2次試験を7月下旬に控えていたのだ。ちなみに6月に筆記試験を合格していた。

8月、2次帰郷を敢行する。目的は売買契約!実際の引越はその後になる予定だった。確か6日月曜日、守谷市役所に転出届けを出す。その足で富山へ。関越、上信越、北陸のお決まり高速コース。富山市役所はその翌日だったか……過去に10年以上過ごしていながら、富山市役所初見参だった。転入届けに始まり、国民健康保険、国民年金、それに障害に関する各届けを済ませた。行きつけの病院に東大からの紹介状を持っていった。

ちなみに身障者の特典(?)は、各自治体で異なる。東京が一番良いような気がするが、医療費に関しては、茨城、富山両県は、オールフリー。東京は1割負担だった。

無事に売買契約を済ませ、またも守谷に戻った。次の帰郷が引越本番だ。引越先が決まり、マンションの売却に本腰を入れる事が出来る。お願いしたのは、前回同様東急リバブル。とにかく前回の仕事があまりにも素晴らしかったので、今回も頼る事にした。

そして引越業者を選定、今まで競合させず、1社で決めてきたが、今回は金額がバカにならないと考え、3社を競合させ、どことはいえないが、茨城から富山、通常30万はかかると思われるところを、エアコンの取り付け、回収も含め22万程度で抑える事が出来た。もっと安い所もあるかもしれないが、私には納得出来る内容だった。毎日毎日段ボール箱の梱包作業に追われた。この頃電気工事2種の合格通知が届いた。

9月、確か18日だったか。業者が荷物を積み終わって、富山に向かった。途中1泊して翌日朝現地待ち合わせ……名残惜しさも感じながら、こちらも一路富山へ……。守谷のマンションとは最後のお別れとなった。

引越の片付けはもちろん、私にはやることがあった。10月いっぱいで失業手当が支払われなくなるのだ。

ハローワーク……仕事を見つけなければ……。

ちなみ1年前のブログの引用です。「仕事の事