SONGS 1990-2000


空を見ている
1990年作
空を見上げて
何も考えずに唯僕は一人で
時が無限にあった
12才の空いつか重ねてた

雲が風に運ばれ
気付かぬうちに空を埋めて行く
それは何時からなのか
だれの仕業か分からぬうちに
大人に成った僕は空を見ている

空を見上げて
夢を語り合ったのは君とこ人で
何時かどこかへ
越していった君の事思い出してる

だれも自分の事が
とても大事さこの僕でさえも
だけど君の未来を守ると言った
あのときの僕は
大人に成った僕より輝いていた

人がだれも醜く
争い合って今を生きて行く
だけど傷付くことも
傷付ける事も感じなくなって
大人に成った僕は今を生きてる

空を見上げることも
忘れかけている
 この頃は、日本のグループでサイズというユニットの「SIGNAL」というアルバムをよく聞いていた。特に1曲目の「KISSES」は繰り返し聞いていた。多少影響があるかもしれない。30歳になるかならないかのこの時期、仕事にも慣れて少し余裕が生まれてきつつあった。1987年ある眼鏡店に就職して3年くらい仕事にどっぷり使っていて、曲を作ることなど、引き出しの一番奥にしまったまま忘れかけていた。1982年結成されたバンド「アルトベンリ」は、すでに消滅した状態であって、バンドのために書いていた頃に比べて、内省的、懐古主義的な曲を書くようになったのだと思う。
 この頃、吉祥寺をメインに府中、調布、武蔵小金井で仕事をしていた。だからその街で食事をしたり、酒を飲んだりしていた。独身生活を謳歌していたと言えるかもしれないが、20代最後の歳で、いろんなことであせっていたのかもしれない。
STAR
1991年作
孤独の海を渡る船に
星は見えなくて
手繰り寄せる思い出は
コンパスにはならない

叫んでみても
聞こえるのは夜の波の音
真実も未来の事も
どこかに隠されている

果てしなく彷徨ってる
星が見えないから
君が今輝いたら
僕は君の元へ向かう

夢を何時でも見ているなら
輝き続ける
誰かが笑っていても
僕だけは信じている

孤独の海に星が一つ
僕を呼んでいる
手を出せば届かないけど
もう彷徨う事はない

君は今輝いてる
夢を現実に変えて
そんな君を見つめている
たとえどんな遠くにいても

果てしなく彷徨ってた
歴史は塗り替えて
君が今輝いてる
僕は何時も遠くで見てる
 「空を見ている」のすぐ後でかかれた曲。20代の後半になり、最初の頃のハングリーさが失われ、バンドを捨て真面目に仕事をしていた僕は、ふと音楽を作る喜びを思い出し、何気なく出来上がったのがこの2曲でした。初期のALTVENRYの斜に構えたひねくれた曲想は少し影を潜めています。
 MUSIC-TOKYOに最初にアップされた曲ですが、自分でもやはり好きです。タイトルは安易にSTARとしましたが、輝いていて手を出そうにも届かないものという意味において、また方向を指し示すコンパス的な役割を考えて、これにしようと思いました。

MUSIC-TOKYO…その前はMP3TOKYOといわれ、2007年頃NEXT-MUSICという名称になって、先にも書いたが2010年突然の閉鎖に一同唖然として、途方に暮れている。

辿り着くことなんて・・・
1992年作
辿り着く事なんてできない
歩いても・・・歩いても
辿り着いたと思ってみたって
そこは通りすがりの街

旅は果てしなく続いてる
この命が尽きるまで
気紛れに走ってみたところで
息が切れるくらいのものさ

辿り着く事なんてできない
だけど歩みを止めない
立ち尽くしてる君の肩を叩き
支えながら歩き続けている

朝が訪れるその度に
勇気が溢れる
希望というありふれた言葉に
何時も何時も励まされている

辿り着く事なんてできない
だけど歩みを止めない
泣き疲れた君の手を取り
疲れた足で歩き続けている

立ち尽くしてる君の肩を叩き
支えながら歩き続けている
 TOKYO EARLY 10 YEARS(ALTVENRYのHOTな私小説のタイトルで、現在は初期の3年だけを描いたTOKYO EARLY 3 YEARSとして発表)も過ぎ、30歳の壁を通り越し、引っ越しを試みて調布の仙川に移ってきました。新築のワンルームマンションで、フローリングで、出窓付きというちょいとおしゃれな環境でした。この曲を書いていた頃、広島の尾道に一人で旅行しました。思えばこの翌年に結婚することになった。独身時代最後の曲にもなったが、たいへん懐かしい。
 TOKYO NEXT 10 YEARSを展開しなければならぬが、20代以上に30代は複雑で、20代以上に苦々しい想い出がいっぱいあるので、曲のコメントになぞらえながら少しずつ書いていこうと思います。
 31歳の誕生日に広島の尾道に一人旅をして、「転校生」や「さびしんぼう」で有名な大林映画の舞台背景を覗いてきた。当時は新3部作の「ふたり」が封切られて間もない頃で、前3部作のロケシーンよりも「ふたり」の冒頭に出てくる坂道の現場や、姉妹の過ごしていた実在する家屋、ワッフルが有名な喫茶店などの発見が新鮮であった。
WORD
1994年作
言葉の裏側に何が
隠されているのだろうか

妬みや憎しみ
嘘や欲望
訳も分からず
君は歩いて行く

また一つ新しい
悲しみに出会っては
涙を瞳に浮かべている

研き澄まされた言葉は
だれもが警戒しているが

心地好い言葉は
心の中まで
裸にしてしまう
恐ろしいくらいに

凍てついた都会の
片隅に置き去りにされて
涙さえ凍りついている

見たことのない怪物が
人間の顔をして
ビルの谷間を這いずり回る

素直なものは血を流し
生きてゆくことを嘆いている
 1994年年末か、あるいは95年に入ってから製作したかもしれない。1993年に結婚して絵に描いたような新婚生活を送っていた僕は、今まで目を向けてこなかったスポーツやドライブや温泉といったものに興味を移していました。音楽も含めて僕の今までの生活スタイルはもうどうでもよくなってしまっていたんです。
 どうも人間幸福に浸っていると創作することを止めてしまう傾向があるんですね。かの太宰治もひたすら下降指向を試みたようです。でも僕にとって、それは20代で卒業としたんです。
 自分一人ではなかったからで、大事なことは妻と二人で出来ることでした。ところが、一人で過ごしてきた20代の遺産を簡単には捨てられなかったんでしょうね。スイッチが入ってしまったんでしょうねえ。
 20代の下降指向は自分のことしか考えてなかったからでしょう。仕事をしていると、いろんな場面に遭遇するもので、特に接客業は複数の人間を相手にすることから良い面も悪い面もかいま見ることが出来ます。人の良い新人の女の子がまあ悪意のいたずらにあったときに、その子を慰めながら、正義感に燃えて書いた曲でもあります。
 今回のスイッチは正義感ですね。 
未来が消えた夜
1995年作
人はだれも一人と
割り切ってたほうが良かった
形のない信頼なんてものを
夢見ていたばかりに‥・

裏切ることが世間そのもの
そんな言葉を口の中で繰り返す

愚かな奴だと言われるだけならいい
希望と一緒に未来が消えた夜

たかが恋の終りと
人はいうかもしれない
それでも二人だけでしか
見れない夢があった

輝いていた明日という日が
カレンダーの中から消えてゆく

色褪せた思い出がゴミ箱の中に眠る
涙と一緒に未来が消えた夜

生きることに意味など
取り繕うようになって
つくづく長い道を
歩いてきたと思う

闇夜の道を照らし続けた
希望のライトは力を失い

足を踏み外せば
きっとそれで終り・・・
命と一緒に未来が消えた夜
 豊田の駅から自宅に向かう途中、舗装はされた道の左右に広がる暗い田園を見ながら、浮かび上がったイメージを膨らませてゆくと言葉が次第に浮かんできた。3コーラス目のフレーズが最初に出来た。「足を踏み外せばきっとそれで終わり…」のあたりだ。発想しながら怖いと思った。
 2コーラス目の「色褪せた思い出がゴミ箱の中に眠る。」のくだりなどよくできていると思うのは、今後を予見していたからです。言葉というのは恐ろしいもので、口にしてしまうと何だか形になってしまうのですね。
 新婚生活を過ぎ、音楽活動再開かと思いきや、1995年冒頭に渋谷店異動がありました。社会的にも阪神大震災や地下鉄サリン事件などのあった年ですが、私にとっても慌ただしく、渋谷に慣れたと思った9月に、店長代理の肩書き付きで吉祥寺に出戻り、そしてすぐ荻窪店長業務、音楽どころではありませんでした。
 12月10日から管理者養成学校に行くことが、店長になる前から決まっていて、店長になりたてでしたが、ひとまず店のことは忘れて、専念することになりました。知る人ぞ知る「地獄」と言うところですが、現実社会の方がよっぽど地獄であって、自身に一点の曇りさえなければそこは理想郷かもしれません。ただし24時間行進は苦痛です。あと思い出は12月24日のイブの夜に数人のメンバーと富士の麓でビールを飲んだこと。つまり規定の日数で卒業できなかったということです。  
満月の夜
1997年作
満月の夜に 帰り道を急いでいる
誰かが待ってるような気がして・・

気のせいかもしれない
僕は何時だって一人だった

水溜まりに映った月でさえ
足を踏み入れたとたん
形を失ってしまうように

満月の夜に 口笛吹き夢見ている
何かが起こるような気がして・・

気のせいかもしれない
僕は何時だって仲間外れ

愛することもできずに
誰かに愛される夢だけをただ
見ている醜く歪んでる心さ

革命が起こるかもしれない
血を流すこともなく
この満月の夜に願いを託そう

願いを託そう

満月の夜に 帰り道を急いでいる
誰かが待ってるような気がして・・
 店長業務が決まる少し前、1995年夏頃に出来ていたが、店長になったり、管理者養成学校に行ったりして、曲が決まらず放っておいた。前作と同じようなシチュエーションだが、場所は結婚前にすんでいた調布市仙川のイメージである。シングルライフに対する懐古趣味ですかね。
 店長として忙しい日々を送っていた僕は、とても音楽どころではなかったのです。とはいえ、何事も慣れてくると多少余裕が生まれてくるものです。1996年秋頃には、結構自由な時間が生まれてきて、この曲や次の「喪失」といった曲を暖めていました。
 1995年の渋谷異動は、今後の店長業務を考えると避けられないものでした。ただし問題もありました。通勤が遠くなること、よって食事の時間が遅くなること。ここで外食を提案し、二人で食事をする時間を遠ざけてしまいました。夫婦関係が少しずつおかしくなっていこうとしてました。  
喪失
1997年作
何かを見失いかけたとき
それを見付け出そうとする努力を
いろいろ試してみるのだが
返ってそれは薄ぼんやりと
記憶の淵に沈んでゆく

古ぼけた地図を頼りにして
車を走らせては見るのだけれど
辿り着けはしない目的地
町の呼び名さえ変わり果て
カタカナの文字に郷愁はない

自分が見えなくなり始めて
慌てたところで
何も解決はできない

果てしなく横たわる荒野に
独りたたずむ・・・

消えかけた電話番号に
何を期待しているのだろう
呼び出し音はなっている
暗く嗄れた声はまるで
迷路の入り口を伝えている
 1996年店長になって半年が過ぎ、多少ゆとりができた頃、休みは一人で行動することが多くなってました。妻も外で働くようになり、定休日がお互い違ったからです。一人になると、ドライブしたり音楽を聴いたりする以外に、レンタルビデオをこっそり借りてきたり、妻以外の女性にあったりする時間が増えていきました。
 言い訳ではないが、最初「彼女」とはそんな関係になるつもりではなかった。時々カラオケに行く程度だったのだ。自由時間の大半はやはり音楽活動であって、夏にはCD以来の画期的デバイスMDデッキを買った。とにかく音がいいこと、録音の順番を決めなくてよいこと(あとで編集できる!)などすごいと思った。国道16号と甲州街道の交差点付近にある家電の量販店には結構通った。このMDもそうだし、電子カーペットもそこだったか。購入はしなかったが、パソコンもよく見に来ていた。
 翌年2月には、これは吉祥寺だったが、ヤマハのQY−300というシーケンサーを手に入れる。これは2006年2代目のi-Mac購入まで、活躍することになる。ちなみにこの曲のストリングスパートなんて絶対、僕には演奏できない。  
COFFEE SHOP
1997年作
窓の外には 押し流されそうな時の流れ
店を下手に出たなら 取り戻すことはできない時間


窓の外では むかつきたくなる夏の太陽
だれのために大事な 汗を流せというのだろう

誰もこの店を出ようとはしない
席を立ち上がり ドアを開けはしない

COFFEE CUPを下げるのは誰だ
カップの底はもう 見えているのに

店の中では 争いが起こることもなく
誰も責任者の顔を 思い出すことさえできない
誰も思い出せはしない

COFFEE CUPを今床に投げ付けて
男が1人ドアを開け放つ
雑踏に消えて行く背中に
時間の洪水が襲いかかる

COFFEE CUPを今床に投げ付けて
一人一人と席を立ち上がる
雑踏に消え失せた男の背中を
追い掛けて誰もが時を駆け上る
 この曲の歌詞は古くて1986年頃できていてた。まだ25才、若い。喫茶店でのんびりしているのもいいが、いつかは意を決して外に出て行かなければならない。つまり、居心地のよい責任のない仕事は楽だけど、人間的成長が得られないとでも言いたいのか。
 これもQY−300なくしては作れなかったであろう曲だ。このQY−300購入してすぐあと、妻の母が倒れる。義父の要請があり、実家ではないが、すぐ近くのマンションに引越が決まる。日野市豊田から一気に中野だ。最寄りの駅は丸ノ内線新中野だった。
 母の死を知った時の妻の顔を思い出すたびに、胸が苦しくなる。僕は中野に来て、良い夫であろうと努力することにした。しかし時既に遅し。引っ越してすぐ、妻から部屋を別にしようという提案を受ける。断れなかった。2LDKなので、お互い一部屋ずつ、僕はその部屋で音楽制作をしていた。この曲は間違いなく、その部屋で歌われたものだ。
 1998年暮れまでは、とりあえずそこが拠点だった。相変わらず「彼女」ともあっていた。いつのまにか関係も出来ていて、相手のことを考えると邪見にも出来なかった。
月明かりの下で
1999年作
不安な気持ちに引きづられて
歩き続ける夜の道を
月が辿り着くべき場所を
教えてくれていた

最後にかわしたkissの
想い出が記憶の中で
凍り付いて動かない
思わずに駆け出していた

時よ、あの日と同じ夢を叶えて
一度だけでいいから奇跡を起こして

月明かりの下で
明日への扉を
手探りで探し続けている

煌めく夜の浜辺で
月明かりに照らされた
生まれたままの姿が
記憶の中で目をさます

時は無限の夜を飛び越え密かに
月の魔法の中で奇跡が起これば

夜が明ける頃には
たどり着けるだろう
新しい風が吹いてるだろう

不安な気持ちに引きづられて
歩き続ける夜の道を
月が辿り着くべき場所を
教えてくれていた

月明かりの下で

歩き続けている
 さらに時は流れてしまった。1998年1月実父がこの世を去り、5月に一周忌で北海道へ行く。この衝撃で何を思ったのか。父親の人生は淋しすぎるとでも思ったのか。40才になる前にもっと自分を成長させたいと思ったのか。その後、仕事部屋と称して別のワンルームマンションを契約して、そこにi-Macを据える。ちょうど暮れの12月だった。
 この年は勤続10周年にも当たっていて(正確には1997年)、パスポートを初めて手に入れオーストラリア旅行をしている。ちょうど一周忌で北海道に行った直後だった。
 翌1999年4月別居告知、6月完全別居、8月離婚、店長降格、新宿異動。10月には府中店に舞い戻り、その頃この曲が書かれた。1999年の流れをかいつまんで書き記したが、これはまた別のところで紹介することになるであろう。
 i-Macを一緒に買いにいった「彼女」と些細なことで仲違いする。1999年は5月頃から完全に一人になる。妻が中野のマンションを出ることになって、別居が公になる。転落あるのみだった。それでも一人でなんとかしようともがいた。11月頃、「彼女」との関係を修復、久しぶりの待ち合わせ。その時の気持ちがこの歌になった。また同時期、HTMLを駆使して初ホームページを立ち上げる。その最初のテーマ曲はこの曲だった。  
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

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