2012年7月29日日曜日

続、電気工事2種

6月3日の筆記試験に続き、7月28日実技試験を受けてきました。


TXの浅草駅から浅草寺を抜けると都立産業貿易センター台東館というのがあって、そこでおこなわれました。

筆記の時は豊洲の芝浦工大でしたが、こちらも浅草寺に集まる観光客に混じって、スカイツリーを眺めながら、ゆっくりしたいという気分にかられました。

試験問題は、事前に13問の候補を発表していて、どれが出るのかが注目だったわけです。28日と29日にわたって行われ、多分前日の方が簡単な課題になるんじゃないかという噂を鵜呑みにしてたので、今回課題6番が出たときはやや動揺を隠しきれませんでした。

何が嫌いかというと、2㎜3芯のVVFが使われてるんです。購入したHOZANのストリッパーには対応してないので、ナイフを使わざるを得なくなるんです。

しかしながら、何とか時間内に完成させることはできましたし、これと言ってミスをした箇所もないとおもわれます。多分大丈夫かと……9月6日には分かりますが。

2012年7月22日日曜日

MACの想い出29「MIDI-1-」

1999年、EZヴィジョンというソフトを購入した頃は、DTM(デスクトップミュージック)といえばMIDIが主流だったのではないだろうか。

まだ音楽圧縮技術がそれほど進んでなかったし、ブロードバンドの普及率も低かったから、容量の小さいMIDIファイルは重宝したのだ。

ホームページを開くと音楽が流れる……なんていうのも、HTMLにMIDIを埋め込んだりしてた。またそのためのジャバスクリプトも覚えたし、ブラウザのIEやネスケでの違いを考慮したり……と今ではあまり気にしない事に気を使っていた。

まあ、とにかくEZヴィジョンでMIDIを作成し、ホームページで流す、っていうそんな作業を当時はしてたわけですよ。

そんな時にこんなことが!

2001年6月28日

著作権

7月1日から、著作権のある曲をホームページなどで使用する場合、当局に使用料を納めなくては行けない。MP3なら音質的にCD同等になるという理由があるが、なんと! MIDIもその対象となるとのこと。
 ASPHERIC DREAMはALLオリジナルなので問題ないが、ALTVENRY'S WHO PAGESと想い出のPOPSは、引っかかりますな。何とかせねば!
 ALTVENRY'S WHO PAGESと想い出のPOPSは人気のサイトだけに、BGMがないのは少し辛いです。まあオリジナル曲にしてしまえば、いいのでしょうが、何の関連もない曲だとイメージダウンになりかねません。


ジャスラックの台頭?!

さらにクイックタイム5のMIDI離れとかあったので、これ以降MIDIは私にとって下降の一途をたどるわけである。

2012年7月20日金曜日

富山から守谷へ

またも強行軍、お昼に立山インターに入って、名立谷浜一服、上越ジャンクションで上信越道に入って松代で一服、横川で遅いお昼を食べて、藤岡ジャンクションで関越道に入る。寄居で一服、そして鶴ヶ島ジャンクションで圏央道に入る。これが完成していれば、つくば方面まで来るから、ものすごい時短になるのに……。

取りあえず出来ている桶川北本インターで降りる。時間も夕方の帰宅ラッシュに重なる最悪の条件だったのだが、17号と16号が滅茶苦茶混んでいた。16号も流れ出せば、落ち着くのだが……。行きと同じように目吹大橋を渡り、県道3号線を通って我が家へ。

到着7時半でした。渋滞がなければ1時間は早かったはずなのに……。

2012年7月18日水曜日

東京百景40「府中駅南口ビリヤード場」

前回の予告通り、またしても府中である。
1987年7月入社して最初の正式な所属店が府中だった。

その前にバイトしてた世界堂の頃から、その傾向はあったのだが、ビリヤードがたいへん流行っていた。多分1986年公開された映画「ハスラー2」の影響が大なのだが、その頃は、「ハスラー」とか「ハスラー2」に関する知識はなく、ただナインボールというポケットビリヤードがえらく面白かった。

府中駅の南口にビリヤード場が数件あった。プールバーというお洒落なものでなく、いわゆる卓球場のノリに近かった。

入社の翌年だから1988年だったか、3人いた社員の1名が暮れに辞めて、F店長と2名という布陣になった。私がまだ研修生上がりだったから、よく本社から応援が来ていた。

なかなか本社の応援もたいへんだったということか、アルバイトを数名募集した。男女1名ずつだったか。二人とも大学生だったから6歳くらいは年下なんだが、けっこうしっかりしていた。

その男子アルバイトの子と店が終わってから、よくビリヤード場に行って楽しんだ。

ちなみに女子アルバイトとも食事に行ったりしたが、残念ながら彼氏がいたので、それ以上の付き合いはなかった。

2012年7月17日火曜日

東京百景39「京王線府中駅北口」

あえて北口としたのは、以降数回登場するであろう府中という場所への布石である。初めて訪れる事になったのは、1987年某眼鏡店に入社して、大田区蒲田での研修を終え、最初に派遣された店舗が府中の駅前店だったからだ。

正確には、研修期間が3ヶ月だったので、府中にいても研修生という肩書きはそのままだった。

とにかく24年続く眼鏡屋人生の出だしだった。
この府中の店舗も私の入社の1ヶ月前オープンだったので、新しかった。
そこの初代店長のF氏に会っていなければ24年も続かなかったかもしれない。

F氏には1年お世話になった。社内でも実力者だった彼が退職したあとの人事異動は大きかった。

2012年7月16日月曜日

電気工事士2種

まさか半世紀を過ぎたこの年で、電工2種を受けるとは思わなかった。

おかげさまで、6月3日芝浦工大まで赴いて筆記試験を受けたが、7月5日に合格通知が届いた。答え合わせをしていたので合格だとは思っていたが、通知をもらうと嬉しい。

そして待ち受けるは、28日の実技試験となったわけだ。

2012年7月15日日曜日

富山での1週間

先週8日に守谷から富山に移動した。
昨年は疎開という名目の夏休みを過ごしたが、今回はやや毛色が違って、将来的に富山に戻るかどうかの見極めの様相が強い。いやもう見極めという生温い段階ではない。戻らなければいけないのだと思う。

けして自分のためではない。多分老いてゆく母のためであり、福島原発と地震を怖がる妻のためなのだと思う。昨年それを理由にして退社したのだ。

無職を1年続けてきた。その間資格を取るべく職業訓練校に行かせてもらい。先月3日の電工2種筆記は合格した。あとは今月28日の実技試験に受かればいいわけだ……。

ただ資格があれば良いというわけではないのだが……。

さて、「生暖かい段階ではない」といいながら夏休み気分も味わっている。月曜は昨年も足を運んだスーパー銭湯「ファボーレの湯」に行って、いわゆるモンゴル式サウナというのか、「火釜発汗房」で汗を流す。また水曜と金曜には市民プールに行って1キロずつ泳いだ。

あさくらのチャーシューメン、伊東のカレー、タリーズ、スタバとお気に入りスポットも抑えた。

その中、ハローワークに顔も出し、親戚に挨拶もし、不動産屋で数件物件を見せてもらった。

多分秋にはこっちに越しているのではないかと想像するが……なんとなく気分は憂うつだ。

あんなことがなければ守谷での茨城生活は快適だったのだ!


東京百景38「大田区蒲田某眼鏡店本社」

前回「新宿世界堂」の続きでいくと、1987年7月7日に世界堂を退社して9日から新しい職場にやってきた。本社研修が5日あった。その前に面接等で来ているが、それ以前に蒲田に来た事はなかった。

数日後に府中駅前店に所属が決まったのを始めとして、20年くらい、いろんな店舗を経験した。蒲田に本社がある以上、まあ何かと蒲田にはやってきた。

特に2010年秋から退社する2011年6月15日までは本社勤務だったので、毎日蒲田に通った。それも2010年2月に都内から茨城の守谷に引越したばっかりだったから、毎日つくばエクスプレス&京浜東北線で通っていた。

2011年3月11日の東日本大震災の日。首都圏の交通網は麻痺した。JRもTXも動かず、蒲田の本社で一晩を明かした。翌日俄に動き出した電車で遠回りしながら5時間かけて帰った。普段の3〜4倍の時間。

いろんな想い出があったはずだが、あの日の記憶にすべて消し去られたような気がする。

東京百景37「新宿世界堂」


1987年、7月7日。七夕の夜。世界堂脇の小さなスナックで送別会の宴が開かれた。主役はこの私であった。

主役は気持ちいいほど酔っぱらっていた。因幡晃の「別涙(わかれ)」と山口百恵の「いい日旅立ち」を熱唱した。

1986年の暮れ、知人の紹介で、世界堂でアルバイトを始めた。次の人生を模索していただ。世界堂は数年後火事で近代的ビルに生まれ変わるが、私がいた頃は古いままの、なんだかからくり屋敷のような面白い建物だった。

表に出る事はなく裏方として、額に入れるガラスを切ったり、数店の支店へ発送する荷物を揃え集めたり、トラックの運転手に同伴して、工場からキャンバスを運んだり、世田谷の倉庫へ仕舞いにいったり……意外な支店は横須賀の基地の中だったが一度だけ同伴した。

ここでの生活は楽しかったが、アルバイトだけに収入の面で厳しかった。また失恋もあったりして、それをバネにここを旅立つ決意をする。就活が実り、7月9日に某眼鏡店入社となり、その二日前に辞めることとなった。

アルバイト仲間と社員さん数名で小さな送別会を催してくれたのだった。

2012年7月13日金曜日

東京百景36「サンシャイン通り森永ラブ」

時期でいうと1984年頃、自伝的要素を取り入れたフィクション「ホワイトシティ・セレナーデ」の頃の話だ。

その「ホワイトシティ・セレナーデ」にあるように当時池袋のカプセルルーム、サウナ、シティホテルが合体したビルの地下2階のボイラー室で、24時間勤務をしていたわけだが……昼食と夕食をどうするかという問題があった。


たいした問題ではない……が、いたってたいくつな職場だったので、そんなことでも問題になった。


とはいえ、パターンは決まってくるもので、多分統計を取れば、森永ラブのツナマフィンが第1位を取る事は確実だ。


1970年頃マクドナルドが上陸して、ハンバーガー時代の到来を告げるとロッテのロッテリアや、明治のサンテオレ、同様に森永も森永ラブを展開していった。


結局、サンテオレやラブはなくなり、替わってファーストキッチンやモスバーガーが頑張っているようだ。ファーストキッチンのベーコンエッグバーガーは確かに時々食べたくなる。


ホワイトシティ・セレナーデ」の宣伝もしておこうと思う……創作して面白おかしくしたつもりであるが、基本的に20代の一番暗い時期である。エンディングが失恋だから暗くて当然とも言える。

2012年7月11日水曜日

東京百景35「新宿住友ビル」

これは自伝的小説「Tokyo Early 3 Years」に詳しいのであるが、一応ここでも触れておきたい。

1981年上京して1年目、二つ目のバイトがマクドナルドだった。それも東口の歌舞伎町に抜ける道で、なおかつ夜10時から朝6時のシンク清掃メインだ。場所柄深夜12時までは開いているので、ハンバーガーも焼く。

もう30年も前なのでかなり忘却しているが、パテという凍っている肉のかたまりを数枚並べて焼く。平行してバンズも専用の機械で焼いている。ベテランバイトのビッグマック9ヶ同時仕上げのようなものを見た事がある。

12時に閉店してからが本業で、いわゆるシンク周りの清掃だが、油汚れが凄い。パテを焼いていると必ず肉汁が出て、これを側溝に流す。1日の肉汁がこの側溝にある容器に溜まっていて、これを処分したり、フィレオフィッシュやポテトを揚げるオイルをそっくり交換するのだが、地下から一斗缶を運んできて入れ替える。他にもいろいろあってかなりの労働だった。当然時給も良かった。

さらにこの時体重8キロ減という偉業を成し遂げたのもこの仕事のおかげだった。

これは反省してるのだが、その頃の私の性分でふと仕事を休んだりしてしまう癖が有った。それが数回重なるとやはり行くのが恐くなってしまう。まあそうなると次の仕事を考えるわけだが……。

当時電話を引く金もなかった(当時は電話を引くのにNTTに7〜8万払って権利を買うのだ)私に連絡を取る手段は電報だった。

「TELコウ、マクドナルド」

私は勇気を出して電話してみた。
担当者は、別に怒るでも呆れるでもなく、事務的に淡々と用件を話した。
要は、支払うべきバイト代が残っているので取りにこいというのだった。

当時、日本マクドナルドの本社は、新宿住友ビルの高層階にあった。現在はアイランドタワーに移っているようだ。

その時、初めて西口の高層ビルの高層階に行ったというのが、東京百景としての落ちなのだが、本来の落ちは別にある。

この時受け取った金額が5000円だった。そしてすぐさまThe Whoというロックグループの「四重人格」というアルバムを4500円で買った。

手元には500円が残った……(たいした落ちではない)

2012年7月10日火曜日

東京百景34「日野市豊田サンデーサン」

もうすでにサンデーサンはない。結構大好きなファミレスの一つだった。ちなみにアイホップも無くなってしまった。

さて1993年、結婚することになって新居を構えたのが、日野市豊田だった。
一人暮らしの居城だった調布のアルカディア鈴木に結婚相手、妹、妹の旦那が集結、レンタカーでハイエースを借りてきての引越。これが独力で行った最後の引越だった。30代前半だったし、一人暮らしの荷物などたかが知れていたからだった。

国道20号は当時、日野バイパス開通前なので、日野橋を渡り、日野駅の側を通り、日野坂を登った。その先を左折すれば豊田駅北口だ。

引越を手伝ってくれた妹夫婦へのお礼が、サンデーサンでの食事だった。

数年後、妹夫婦も離婚し、我々も離婚する事になるのだが、その時はまさかそんな日が訪れるとは思ってもみなかった。

そのサンデーサンは、現在ココス豊田店になっている。サンデーサンはゼンショーグループである日本の企業で、ほとんどがココスに変わっているようだ。ちなみにアイホップは、カリフォルニアに本社を置くレストランチェーンで、日本では最初長崎屋の外食部門が提携して運営していた。

2012年7月8日日曜日

守谷から富山へ

金曜が土曜、土曜が日曜にずれ込んで、今日帰省となった。

10時に新守谷のMACで朝マックして、常総市、坂東市を抜け、目吹大橋で利根川を渡り千葉入り、16号に入りさいたまを横断して関越に入る。
12時に高坂SAで休憩して、1時に横川SAで昼食を取り、3時半に名立谷浜でコーヒーを飲み5時過ぎに富山市内に入った。

昨年は被災証明書を活用すべく、水戸まで北上し北関東自動車道を使っていたが、1時間半から2時間は違う。

当然ながら、疲れ具合、足の痛み具合も違う。段々しんどくなっているのは年齢のせいだろうか?

2012年7月2日月曜日

東京百景33「杉並区方南町」

東京百景、振り返って、まだ残っていた方南町。22歳から8年過ごしたこの町を忘れていたわけではけしてない。ちなみに39歳から10年過ごした江東区森下が今では最長だが、感受性の強かった20代を8年も過ごした方南町のすべてを書き記すには、このスペースはどうだろう。

オリジナル小説「ゼームス坂マンションストーリー」にある通り、方南町にやってきたのはアルバイトの面接がきっかけだった。

電気工事は半年、照明器具の配達も数ヶ月と仕事が続かない中、知り合いの紹介でボイラー管理(これは資格は要らず代表者が一人持っていれば良かった)を始める。これは仕事が楽だったせい
か、1年以上も続いた。

この頃、好きな女の子がいて、こんな年寄りじみた仕事をしていては駄目だ、と思い退職する。しかしながらまたも転職の旅となる。

結局、27歳の時に眼鏡店に就職するも、その好きな娘はとうに他の男のもとへ嫁いでいた。

さて、この方南町、電気工事会社の寮に数ヶ月いたあとは、泉南中学校(後藤久美子の出身校らしい)の正面にあった「桜荘」というアパートに3年ほどいて、後に「堀ノ内ハイツ」に5年ほど住む。桜荘は4畳半で、玄関とトイレ共用という貧相な環境だったが、オリジナル曲を数曲産み出した。堀ノ内ハイツは、初のバス付きのアパートで家賃は倍になったが、初のベッド、洗濯機のある生活をおくることになった。CDデッキ、ビデオデッキ等もこの頃初めて購入している。人生の上り坂だったのだろうか!

30歳になったのを機に調布の方に引越を計画するが、方南町は故郷と呼んでも良い場所の一つかもしれない。