2012年1月17日火曜日

ATOMIC BLUE


ATOMIC BLUE
2011年
凍てついた君の瞳の
その先にあるものを許せない
心配などいらないし
むしろ街は潤うだろうと言ったのに

確かに人が溢れ、栄えてはいるけれど
隠してた危険と裏腹の繁栄

二酸化炭素を排出しないで
クリーンで安全、きれいごとを並べて
ひとたび事が起これば、収拾付ける
事さえ出来ずに逃げてばかりだ

輝いた君の瞳に
刻まれた哀しみは消せない
取り繕うだけの大人を
受け入れるしかできない現実

未来に残された傷跡は惨すぎて
広大な荒野に取り残されて嘆く

科学の力だ、平和的利用と
信じたばかりにこの様はなんだろ
政治や経済、何のためにある
駆け引きばかりに利用されている

どこまで行っても答えなどでない
巨額のプロジェクトはいったい誰のもの
いつまで待っても変わることはない
腐った絆に取り憑かれてる
 2009年1月に手術をして、2月には職場に戻り、大人しく過ごそうとしていた。昨年と違い明らかに覇気はなかった。上司の嫌がらせと戦いながらもやるせなくなって、転職なども考える。上司だけの問題ではなく、月10万円以上のマンションローンに脅威を感じていた。転職を避ける一つの方法があった。都内のマンションを売って、もっと田舎の安いマンションに移り住む事だった。
 つくばエクスプレスに魅力を感じていたので、思い切って茨城という選択が面白いと思った。次第に計画が実行に移されて2010年2月2日には引越が完了した。利根川より北というロマンがあった。
 2010年夏は、膝を痛めるアクシデントがあり、店舗業務を遂行できなくなり、本社事務職となり、茨城から蒲田まで通うという悪い環境の中、2011年3月に震災が起こり、トラブルに巻き込まれ始める。6月、24年勤めた会社を辞めて、疎開のため実家の富山に帰る。3ヶ月のデトックス生活を終え、戻るも職に就けず、音楽という懐かしい友に助けられ、原発に対する疑問を詩にすることで、久しぶりに新作を発表する。実に2年ぶりだった。
 2011年10月16日に「MUSIC TRACK」に発表された。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

0 件のコメント:

コメントを投稿